吾輩は猫である(現代編)

吾輩は猫である ― 長嶋茂雄篇 ―

2025年6月12日

吾輩は猫である ― 長嶋茂雄篇 ―

吾輩は猫である。名はまだない。
だが「ミスター」と呼ばれる男の名は、街角のテレビから今も流れてくる。
そう、長嶋茂雄――というらしい。

野球という遊びのなかで、彼はひときわ派手に、そして自由に動いたそうだ。
「サードの守備が舞っていた」「バットを振るたびに風が変わった」――
人間はそんなふうに、まるで伝説を語るように話す。

ふむ、どこか吾輩に似ていなくもない。

気まぐれで、華やかで、理屈ではなく感覚で生きている。
だがその背後には、並々ならぬ集中力と、“型にはまらぬ型”があったという。

飼い主がかつて言った。
「ミスターはな、失敗してもカッコええんや。猫みたいやろ」

なるほど、それは最大級の褒め言葉である。

吾輩も、高く跳んだつもりで落ちることがある。
カーテンに爪を引っかけて怒られることもある。
だが不思議と、その“失敗”すら絵になることが、猫にはある。

長嶋茂雄とは、つまり“プレー”で語る存在だったのだ。
言葉ではなく、動き、間、空気で――まるで猫がしっぽで会話するように。

華やぎは 爪跡よりも 残る声

今も球場に立たずとも、彼の“余韻”だけが空を舞っている。
それを追いかけたボールボーイの記憶のなかに、
きっと吾輩のような猫も、ちらりと紛れ込んでいるかもしれぬ。


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gonta

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