吾輩は猫である。名はまだない。
ある日、飼い主が床に落ちている細い白いものを拾い、
そっと息を止めた。
「……あった。」
それは、吾輩の髭である。
猫の髭は、
ただの毛ではない。
距離を測り、
風を読み、
世界の輪郭を知るための道具だ。
それを落とすということは、
ほんの少し成長した証でもある。
飼い主はその髭を、
小さな箱に入れた。
「捨てられないんだよね。」
そう言って、
満足そうに頷く。
箱の中には、
すでに何本かの髭が並んでいる。
長さも、
曲がり具合も、
色も違う。
――まるで、
吾輩の人生の断片である。
吾輩は思う。
なぜ人は、
猫の抜けた髭を集めるのか。
答えは簡単だ。
それが“無事に過ぎた時間”の証だからだ。
病気でもなく、
事故でもなく、
自然に抜けた一本。
それは、
今日も普通に暮らせたという
小さな報告書なのだ。
飼い主は時々、
箱を開けて眺める。
「この頃は、まだ小さかったね。」
吾輩はその横で、
しっぽを揺らす。
――記憶は、
人と猫で、
こうして共有されていく。
吾輩は猫である。名はまだない。
だが知っている。
集められているのは髭ではない。
共に過ごした、
静かな日々なのだ。
髭一本 今日も無事だと 箱に眠る