吾輩は猫である。名はまだない。
家の中には二人の声がある。
朝はトーストの香り、夜は湯気の立つ味噌汁。
同じ屋根の下、同じ時間をゆっくりと分け合って生きる――
それが、この家の“いい夫婦”という姿らしい。
喧嘩もする。
飼い主の片方がむすっとして、
もう片方が黙って洗い物をしていることもある。
吾輩はその間をそっと歩き、
気まずい空気を毛づくろいの音でほぐす。
やがてどちらかが、
「ごめん」と小さく呟く。それで終わる。
互いに譲り合うでもなく、
かといって離れすぎることもない。
ふたりの距離は、
こたつの中で足が触れたときのような、
あたたかい曖昧さでできている。
夜になると、吾輩の寝床の横で、
二人が並んでテレビを見ながら笑っている。
吾輩はそのひざの間に入り込み、
安心という名の布団にくるまれる。
「この子がいると、家が明るくなるね」
そう二人が言うとき、吾輩は思う。
――いい夫婦とは、
自分以外の誰かの幸せを自然に考えられる者たちのことだ、と。
吾輩は猫である。名はまだない。
けれど、ふたりの真ん中にいると、
世界は少し広く、少し優しく見える。
寄り添えば 家路に灯る 春あかり