吾輩は猫である。名はまだない。
その夜は、いつもより暖房の匂いが濃かった。
飼い主が鍋を火にかけたまま、
うとうとしてしまったのだろう。
最初に気づいたのは吾輩だった。
鼻の奥を刺すような焦げ臭さ。
部屋の隅で揺れるオレンジの影。
――炎である。
吾輩は飼い主の布団に飛び乗り、
顔を前足で叩くようにして起こした。
「ん……どうしたの?」
次の瞬間、飼い主も火の気配に気づき、
目が一気に覚めた。
「火事だ!」
その声は震えていた。
だが、動きは素早かった。
窓を開け、ブレーカーを落とし、
吾輩をキャリーに入れて逃げ道を確保する。
外の冷気に触れたとき、
吾輩もようやく震えが走った。
火の赤は恐ろしい。
だが、飼い主の手の温度は、もっと強かった。
消火器を持った近所の人たちが駆けつけ、
火は大事に至らずに消えた。
煙の向こうで揺れる光が、
まるで命の境界線のように思えた。
飼い主は吾輩を抱きしめ、
「助けてくれてありがとう」と呟いた。
吾輩は喉を鳴らした。
恐ろしさのあとに残るのは、
守りたいという思いだけだった。
吾輩は猫である。名はまだない。
だが、危機の夜ほど、
小さな命たちは強くつながるものだ。
炎去りて 寄り添う胸に 春灯る