吾輩は猫である。名はまだない。
秋の山は、金色に染まっていた。
木の実を拾いに、少し奥まで入りすぎたのだ。
風がひゅうと抜け、葉がカサリと揺れたその瞬間――
大きな影が木立の向こうに立っていた。
クマである。
吾輩の背の何倍もある体、
黒光りする毛並み、
息づかいが地面を震わせる。
時間が止まったようだった。
逃げるか、動かぬか。
猫の本能が叫んでいた。
しかしクマの目は、意外にも穏やかだった。
その瞳には、飢えでも怒りでもなく、
ただ静かな生の光が宿っていた。
しばし、二つの影が山の斜面で向かい合った。
吾輩は小さく息を吐き、
ひげを一度だけふるわせた。
クマはゆっくりと背を向け、森の奥へ消えた。
そのあと残ったのは、風の音と、
どこまでも青い空だけ。
人は恐れ、猫は怯える。
だが山にとっては、どちらも一つの命にすぎぬのだ。
吾輩は猫である。名はまだない。
だが、あの一瞬に感じた鼓動の共鳴を、
たぶん一生忘れないだろう。
山の息 毛皮も震え 秋深し