吾輩は猫である。名はまだない。
だが「ミスター」と呼ばれる男の名は、街角のテレビから今も流れてくる。
そう、長嶋茂雄――というらしい。
野球という遊びのなかで、彼はひときわ派手に、そして自由に動いたそうだ。
「サードの守備が舞っていた」「バットを振るたびに風が変わった」――
人間はそんなふうに、まるで伝説を語るように話す。
ふむ、どこか吾輩に似ていなくもない。
気まぐれで、華やかで、理屈ではなく感覚で生きている。
だがその背後には、並々ならぬ集中力と、“型にはまらぬ型”があったという。
飼い主がかつて言った。
「ミスターはな、失敗してもカッコええんや。猫みたいやろ」
なるほど、それは最大級の褒め言葉である。
吾輩も、高く跳んだつもりで落ちることがある。
カーテンに爪を引っかけて怒られることもある。
だが不思議と、その“失敗”すら絵になることが、猫にはある。
長嶋茂雄とは、つまり“プレー”で語る存在だったのだ。
言葉ではなく、動き、間、空気で――まるで猫がしっぽで会話するように。
華やぎは 爪跡よりも 残る声
今も球場に立たずとも、彼の“余韻”だけが空を舞っている。
それを追いかけたボールボーイの記憶のなかに、
きっと吾輩のような猫も、ちらりと紛れ込んでいるかもしれぬ。