吾輩は猫である。名はまだない。
ある晩、台所の隅でカサリ、と音がした。
吾輩はしっぽを高く上げ、
静かにその方向を見つめた。
そこにいたのは――
小さなネズミであった。
ネズミは震えながら吾輩を見上げた。
「食べるなら早くしてくれ……」
その覚悟の表情に、吾輩は思わず吹き出しそうになった。
「安心するがよい。吾輩は腹が満ちている。」
そう告げると、
ネズミはホッと息を漏らした。
やがて彼は、
夜の台所での出来事や、
人間の落としたパンくずの美味しさについて、
早口で語り始めた。
吾輩はそれを黙って聞いていた。
生きるとは、
互いの恐れと好奇心を持ち寄ることなのだな、と
その時思った。
ネズミは帰り際にこう言った。
「お前さん、案外いいやつだな。」
吾輩は胸を張って答えた。
「吾輩は猫である。威嚇専門ではない。」
翌日、飼い主が台所で言った。
「最近ネズミ見ないねぇ」
吾輩は何も言わなかった。
友情とは、ときに沈黙の中で育つものだ。
吾輩は猫である。名はまだない。
だが、昨夜のあの小さな影が
今もどこかで元気に生きていると思うと、
胸の奥が少し温かくなる。
異種でも 心通えば 春きたり