吾輩は猫である。名はまだない。
雪が降り積もる山あいの村。
白銀の世界を歩く吾輩の前に、
小さな影がぴょんと跳ねた。
それは――おこじょ。
白い毛並みに黒い尻尾、
雪の中をすばしこく走る小さな生き物である。
「寒くないのか?」と吾輩が声をかけると、
おこじょは振り向いてにやりと笑った。
「雪の中こそ、わたしの道。足跡が風になるんだ」
その言葉に、吾輩は舌を巻いた。
人も猫も寒さを避けて家にこもるが、
おこじょは冬を生きる達人なのだ。
夜になると、山は静まり返る。
吾輩は屋根の上で星を眺め、
おこじょは雪穴の中で丸くなる。
それぞれの場所で息づく命。
互いの気配だけが、
山の静寂をやさしく照らしていた。
やがて春が訪れるころ、
おこじょの白い毛は少しずつ茶色に変わる。
「また来年、雪の道で会おう」と言って、
彼は森の奥へ消えていった。
吾輩は猫である。名はまだない。
だが、あの小さな背中が教えてくれた。
冬を恐れぬ者だけが、
春の光をまっすぐ見られるのだと。
雪原に ひと跳ね残る 春の兆