吾輩は猫である(現代編)

吾輩は猫である ― 長崎の夏 編―

吾輩は猫である ― 長崎の夏 編―

吾輩は猫である。名はまだない。
生まれは路面電車の走る街。
夏になると、観光客が増える。
ハウステンボス、グラバー園、眼鏡橋――
けれど、8月9日だけは、
町の時間が一瞬止まる。

正午前、平和公園の空に鐘が鳴る。
遠くからでも、その音はまっすぐ響いてくる。
人間たちは立ち止まり、
吾輩もいつもより静かに、
蝉の声と空の色を見つめる。

祈りとは 声なき夏の 風である

この町の夏は、
美しくて、やさしくて、そして痛い。
飼い主は、時折ぼそりと語る。
「祖母はね、爆心地のすぐ近くで…」
それ以上は、語らない。

その言葉の先にあるものが、
“語り尽くせぬ記憶”であることを、
吾輩は、知っているような気がする。

平和公園には今日も鳩が舞う。
吾輩の仲間の猫たちは、
人の足元をすり抜けながら、
祈るように日陰に身を伏せる。

公園に訪れた少年がつぶやいた。
「なんで猫がこんなにいるの?」
父親は答えた。
「この街の夏は、みんなで守ってるんだよ」

――なるほど、それなら吾輩も一役買おう。

歴史は語られなくなっても、
匂いや音や静けさの中に、
忘れてはいけないものが残る。

今年も、また夏が来た。
長崎の空は高く、陽はまぶしい。
それでも、正午を過ぎた風だけは、少しひんやりしている。

吾輩はその風を胸に受けて、
今日もそっと、まぶたを閉じる。


スポンサーリンク

  • この記事を書いた人

gonta

-吾輩は猫である(現代編)