吾輩は猫である。名はまだない。
久しぶりに、潮の匂いが鼻に触れた。
遠くで波が砕け、
海鳥の声が空を横切っていく。
この場所は、吾輩が生まれた“海沿いの町”。
風は昔のことを全部覚えているようだ。
飼い主と暮らす都会の生活はにぎやかで、
窓から見える景色も常に変わる。
だが、心のどこかでいつも、
この波の音だけは特別な響きを持っていた。
砂浜に足を下ろすと、
ひんやりとした粒のひとつひとつが
まるで「おかえり」と言っているようだった。
潮風が毛並みをゆらし、
吾輩はゆっくりと目を閉じた。
かつて、ここで母猫と並んで見た夕日。
幼い吾輩が波を怖がり、
でも少しだけ興味を持って近づいたあの日。
それらの記憶が、
海の青さとともに胸の奥でほどけていく。
人も猫も、
帰るべき場所はただひとつではない。
今の家も、ここも、
どちらも吾輩にとって“世界の一部”なのだ。
吾輩は猫である。名はまだない。
だが、波打ち際に座りながら思った。
帰るとは、
過去と今をつなぐ、静かな祈りのようなものだと。
波音や ふるさと遠く 胸に満つ