吾輩は猫である。
名前はまだない。
昔、
東京の大森から馬込あたりに、
妙に文章を書く人間たちが集まっていた。
小説家。
詩人。
評論家。
画家。
人間はそこを、
文士村と呼んだ。
村といっても、
門があるわけではない。
村長もいない。
入村試験もない。
ただ、
一人住む。
友人を呼ぶ。
また一人住む。
気づけば、
近所が文士だらけになる。
実に自然発生的である。
尾﨑士郎。
宇野千代。
川端康成。
室生犀星。
萩原朔太郎。
山本周五郎。
今なら本屋の棚に並ぶ名前が、
当時は近所を歩いていた。
吾輩は思う。
文豪というものは、
一人で暗い部屋にこもり、
難しい顔で原稿を書いているのだと思っていた。
ところが、
どうも違う。
酒を飲む。
麻雀をする。
踊る。
恋をする。
別れる。
そして、
また書く。
馬込の文士たちは、
なかなか忙しかったらしい。
吾輩は思う。
文学とは、
机の上だけから生まれるものではないのだと。
誰かと話す。
腹を立てる。
笑う。
嫉妬する。
恋をする。
失敗する。
そういう面倒なことが、
いつか文章になる。
ならば、
文士村とは、
作家が住んでいた場所ではない。
物語の材料が、
そこら中を歩いていた場所なのだ。
猫なら、
少し離れた塀の上から眺めていたい。
昨日は、
あちらの家で文学論。
今日は、
こちらの家で麻雀。
その翌日は、
「あの二人、どうも様子がおかしい。」
実に退屈しない。
だが、
吾輩はもう一つ思う。
才能のある者が、
近くにいるということは、
楽しいだけではない。
隣人が、
名作を書く。
友人が、
賞を取る。
自分は、
書けない。
人間なら、
少し焦るだろう。
少し悔しいだろう。
だが、
その悔しさまで、
次の作品を生む力になる。
一人なら、
「今日は書けない。」
で終わる。
近所に作家がいれば、
「あいつが書いているなら、
吾輩も書くか。」
となる。
猫同士でも、
隣の猫が高い塀へ跳べば、
少しだけ挑戦したくなる。
創作にも、
そんなところがあるのかもしれぬ。
今、
馬込や山王を歩いても、
昔の文士たちが道端で議論しているわけではない。
住宅が並ぶ。
車が通る。
人々が、
普通に暮らしている。
だが、
記念館や住居跡の案内板が、
ところどころに残っている。
吾輩は思う。
街には、
見えない地層があるのだと。
今の道の下に、
昔の道がある。
今の家の隣に、
昔の物語がある。
知らずに歩けば、
ただの坂道。
知って歩けば、
「あの作家も、
ここを歩いたのか。」
となる。
同じ景色なのに、
少し違って見える。
吾輩は猫である。
文学賞は取らぬ。
原稿も書かぬ。
だが、
人が集まり、
互いに刺激を受け、
それぞれの物語を生み出す場所には、
少し興味がある。
文士村とは、
偉い作家たちが住んだ昔の街ではない。
誰かの言葉が、
別の誰かの言葉を呼び、
人と人との間から作品が生まれていった、
大きな共同書斎だったのだ。
そして、
今そこを歩く誰かが、
「自分も書いてみようかな。」
と思ったなら。
文士村は、
まだ終わっていないのである。
文士去り
坂には今も
言葉棲む