吾輩は猫である。名はまだない。
ある休日、飼い主がキャリーケースを取り出した。
その瞬間、胸がざわつく。
――動物病院か?
――それとも爪切りの次は予防接種か?
ところが飼い主は満面の笑みで言った。
「今日はドライブだよ!」
ドライブ……?
どうやら、車で“どこかに行く”らしい。
出発してすぐ、
車はゴトゴト、景色はぐるぐる。
吾輩のひげが緊張でピンと立つ。
しかし飼い主の声は落ち着いていた。
「大丈夫、そばにいるからね」
その一言が、エンジンよりも温かかった。
やがて、揺れにも慣れてきた。
窓から差し込む風は、
家の中では嗅いだことのない匂いを運んでくる。
草の匂い、川の匂い、知らない街の匂い――
世界は想像よりずっと広い。
少し勇気を出して、
キャリーの隙間から前方をのぞくと、
遠くに大きな空が広がっていた。
車という“ゆりかご”の中で、
吾輩は初めて、“動く世界”を知った。
目的地に着くと、
飼い主がキャリーを開けて微笑んだ。
「また来ようね」
吾輩はそっと鼻先をくっつけた。
――悪くない。
世界を少しだけ好きになった。
吾輩は猫である。名はまだない。
だが今日、初めて思った。
旅とは、揺れに耐えながら、
誰かと景色を共有することなのだと。
走る窓 風と匂いで 春ひらく