吾輩は猫である。名はまだない。
山の空気は薄く、風は澄みきっている。
飼い主が背負うリュックの中で、吾輩は小さく丸まっていた。
今日の目的地は「日本一高い温泉」――
空に一番近い湯だという。
山小屋を越え、岩を渡り、
ようやくたどり着いたその場所は、
まるで雲の中に浮かぶような静けさだった。
湯けむりが白く立ちのぼり、
あたりは硫黄の香りに包まれている。
飼い主が足を湯に浸す。
「あったかいねぇ」と微笑んだ。
吾輩はその膝の上にのり、
蒸気のぬくもりを毛並みに感じた。
風は冷たく、湯はやさしい。
この対照が、まるで人生そのもののようである。
空を見上げると、雲がゆっくり流れていく。
ここでは時間も声も、
すべてが小さく静まっていく気がした。
人が自然に身をゆだね、
自然が人を包みこむ――
温泉とは、そういう場所なのだろう。
吾輩は猫である。名はまだない。
けれど、湯けむりの向こうで感じた。
この世は思ったよりも広く、
それでいて、どこか懐かしい。
湯けむりに 空を映して 春を知る