吾輩は猫である。名はまだない。
だが、毎年八月六日の朝、
この家の空気が少し違うのは、知っている。
飼い主はテレビをつけ、
静かに目を伏せている。
画面には折鶴、鐘の音、白い花。
そして、あの言葉――
「二度と繰り返しませんように」
記憶とは 風よりかすか 蝉しぐれ
人間たちは忙しくなりすぎた。
防災アプリはあっても、
「平和アプリ」は更新されぬまま。
子どもは言う。
「学校で黙祷したけど、なんでだっけ?」
飼い主は答えに詰まる。
“説明の難しい静けさ”が、この日にはある。
かつて、この家にも
祖母と呼ばれる人がいた。
原爆を体験したわけではないが、
語り部として、毎年話してくれた。
「猫もね、あの日たくさんいなくなったのよ」
その声はもう聴けない。
語り手が減るごとに、
語るべきことも、聞く耳も遠ざかっていく。
飼い主が吾輩の背をなでながらつぶやく。
「…せめて私の代くらいは、覚えておこうね」
吾輩は何も言わぬ。
だがその手のぬくもりに、
“忘れてはいけない何か”が宿っていた。
8時15分。
鐘が鳴り、町が止まる。
蝉が一瞬、鳴くのをやめたような気がした。
その静けさの中にだけ、
確かにあった“祈り”というものを、
吾輩は胸にしまって昼寝に入る。
目を閉じても、
その音だけは、まだ耳に残っていた。