吾輩は猫である。名はまだない。
だが、寿司には一家言ある。
かつて、路地裏の寿司屋に迷い込んだことがある。
「江戸前の粋ってやつを、知ってみたい」と思ったからだ。
カウンターの檜の香り、
職人の手元から舞う白い湯気、
そして、目の前に置かれたのは――赤身の握り。
静かだった。
客は誰もしゃべらない。
シャリの湯気と、炙りの煙だけが語っていた。
飼い主は言う。
「猫が寿司なんて…冗談でしょ?」
違うのだ。
我々猫族は、本能的に“良い魚”を知っている。
脂の乗り、酢飯の温度、
あの一貫に込められた「沈黙の技術」に、
胸が打たれるのである。
炙りトロの香ばしさに目を細め、
穴子の煮詰めにうっとりし、
時にはガリで口直しをする――
(いや、正直ガリはあまり好きではないが、雰囲気で食べている)
そして、最後のタマゴ。
これは寿司職人の名刺のようなもの。
しっとり甘く、どこか懐かしい。
それを舌に乗せた瞬間、
吾輩は確信した。
「この店は、信頼できる」
猫にとって寿司とは、ただのご馳走ではない。
魚と米と技の三重奏、そして、
静かなる対話の場なのだ。
今日もまた、
寿司屋の裏口にちょこんと座る吾輩を見かけたら、
どうか一貫、分けてほしい。
タマゴで、いい。