吾輩は猫である。名はまだない。
ある日、飼い主が引き出しを整理していたときのことだ。
ぽん、と机の上に小さな黄色い封筒が置かれた。
「わあ、お米券だ!」と飼い主が声を上げた。
吾輩は首をかしげた。
――米なら、いつも袋で買っているではないか。
なぜ紙切れひとつで喜ぶのか。
飼い主は、吾輩の疑問を読んだかのように語り出した。
「昔はね、お祝いとか贈り物とかに“お米券”をよくもらったんだよ。
今でも使えるし、なんだか懐かしくて嬉しいんだよね。」
ふむ……なるほど。
人には、物そのものよりも、
そこに添えられた“気持ち”が価値になることがある。
吾輩がカリカリより飼い主の膝を選ぶ夜があるように。
飼い主は嬉しそうに封筒を抱え、
「今度、ちょっと良いお米買おうか」と言った。
吾輩は尻尾をふり、心の中で密かに願った。
――できれば鮭も一緒に買ってほしい、と。
夜、炊き上がった湯気の向こうから漂う香りは、
たしかに、どこか温かかった。
家族の記憶がよみがえるような匂いだ。
吾輩は猫である。名はまだない。
だが思う。
小さな紙の一枚にも、
人の暮らしの温度が染みているのだな、と。
紙一枚 思い出ふわり 炊きあがるい主の視線を遮るように丸くなった。
「ちょ、ちょっと!そこは源泉徴収票!」
ふむ。だからこそ、守ってやらねばならぬ。
飼い主はため息をつきながら言う。
「年末調整が終わらない……」
吾輩は尻尾をゆっくり左右に振った。
焦って書くと失敗する。
それはトイレの砂かけと同じ理屈である。
ときおり飼い主は
「配偶者控除……?」「社会保険料……?」
などと呟き、書類の迷宮に迷い込んでいた。
吾輩は思った。
人間も猫も、年の瀬になると落ち着かぬものだ。
ようやく提出用の封筒が完成し、
飼い主は「終わったあああ!」と崩れ落ちた。
吾輩はその膝にのり、
“よく頑張った”という意味で喉を鳴らしてやった。
吾輩は猫である。名はまだない。
だが思う。
年末調整とは、書類の山を越えた者にだけ
一息つく冬のご褒美なのだろう。
紙山を 越えて迎える 冬の灯