【吾輩は猫である 現代版】猫視点で描くオリジナル短編

吾輩は猫である ―原爆の日 編(核の傘の下で)―

2026年8月6日

吾輩は猫である ―原爆の日 編(核の傘の下で)―

吾輩は猫である。
名前はまだない。

八月六日の朝、
広島では、
空を見上げる時間がある。

午前八時十五分。

いつもなら、
人が働き始め、
子供が笑い、
猫が日陰を探し始める頃である。

だが、
八十一年前のその朝、
一つの爆弾が、
街の日常を奪った。

三日後には、
長崎にも落とされた。

人間はこれを、
原子爆弾と呼ぶ。

ずいぶん科学的で、
整った名前である。

だが、
起きたことは、
少しも整ってはいなかった。

家が焼けた。

人が焼けた。

昨日まで交わしていた約束が、
突然、
行き先を失った。

それでも人間は、
核兵器を手放せずにいる。

アメリカは、
核を持つことで平和を守れると言う。

北朝鮮は、
核を持つことで国を守れると言う。

イランには、
核兵器をつくるのではないかという疑いが向けられ、
作っていないという言葉と、
本当に作っていないのかという疑念が、
長くにらみ合っている。

人間はこれを、
核抑止と呼ぶ。

互いに、
「撃てば撃ち返すぞ」と言いながら、
平和を守っているらしい。

猫同士なら、
背中を丸め、
毛を逆立て、
大きく見せることはある。

だが、
本当に爪を立てれば、
自分も傷つく。

ゆえに、
どちらかが視線を外し、
静かに距離を取る。

猫の方が、
少し賢いのかもしれぬ。

吾輩は思う。

核の傘とは、
不思議な傘である。

雨を防ぐための傘なら、
持っている者は安心する。

だが、
核の傘は、
落ちてくれば街ごと消える。

そんなものの下で、
人間は本当に
安心して眠れるのだろうか。

核を持つ国は言う。

「われわれが持つのは、
使うためではない」

持たぬ国は思う。

「ならば、
なぜ持ち続けるのか」

その問いに、
誰も十分には答えない。

相手が持つから、
自分も持つ。

自分が持つから、
相手も手放さない。

まるで、
互いに尻尾を踏みながら、
先に鳴いた方が負けだと
我慢しているようなものである。

だが、
核兵器には、
猫パンチほどの加減はない。

一度使えば、
勝者も敗者も、
簡単には元の暮らしへ戻れぬ。

国旗も、
思想も、
軍人も民間人も、
核の火は区別しない。

だから、
原爆の日に考えるべきことは、
昔の悲劇だけではない。

アメリカだからよいのか。

北朝鮮だから悪いのか。

イランが持たなければ、
それで安心なのか。

そうではあるまい。

すでに持つ国にも、
これから持とうとする国にも、
同じ問いを向けねばならぬ。

その力は、
誰を守るのか。

その力を使った後に、
守りたかった国や街は
本当に残るのか。

日本は、
原爆を落とされた国である。

だからこそ、
悲しみを語るだけでは足りぬ。

友好国にも、
対立する国にも、
核を増やすな、
作るな、
使うなと、
同じ声で言わねばならぬ。

相手によって言葉を変えれば、
それは平和の訴えではなく、
都合のよい鳴き声になってしまう。

吾輩は猫である。
外交も、
核戦略もわからぬ。

だが、
安心して眠れる場所に、
空から火が落ちてこないことくらいは望んでいる。

原爆の日とは、
過去の犠牲者に手を合わせる日である。

同時に、
今を生きる者が、
核兵器を必要悪という言葉で片づけず、
本当に手放す道を考える日でもあるのだ。


核の傘
畳む勇気を
誰が持つ

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gonta

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