吾輩は猫である。
名前はまだない。
ある日、
家の中に箱が増え始める。
昨日まで棚にあったものが、
次々と姿を消す。
人間はこれを、
引っ越しと呼ぶ。
吾輩は思う。
ずいぶん落ち着かない。
見慣れた匂いが減る。
いつもの寝床が動く。
人間も、
妙に忙しい。
捨てる。
詰める。
運ぶ。
そして、
また出す。
最初から動かさなければよいのではないかと、
少し思う。
だが、
人間には事情があるらしい。
広い家へ。
近い職場へ。
新しい街へ。
家族の都合で。
人生の節目で。
家を変える理由は、
一つではない。
吾輩にとっては、
理由よりも問題がある。
ここは、
どこなのだ。
新しい家に着いても、
すぐには安心できぬ。
知らない音。
知らない匂い。
知らない窓。
まず、
安全な場所を探す。
隠れる。
様子を見る。
それから、
少しずつ歩く。
人間は、
早く慣れてほしいと思う。
だが、
吾輩は思う。
慣れるとは、
急がせるものではない。
昨日までの家には、
何年分もの安心があった。
新しい家には、
まだ一日分しかない。
時間が必要なのである。
人間も、
案外同じではないか。
新しい住所。
新しい道。
新しい隣人。
新しい生活。
期待はある。
だが、
少し不安もある。
引っ越しとは、
未来へ進むことでもあるが、
慣れたものを手放すことでもある。
だから、
少し寂しい。
それでよい。
吾輩は猫である。
住所変更の手続きはせぬ。
だが、
新しい場所が「我が家」に変わるまでには、
時間が必要なことは知っている。
住宅引越しとは、
荷物を移すことではない。
安心して眠れる場所を、
もう一度つくり直すことなのだ。
箱ほどけ
新しき家が
巣になりぬ