吾輩は猫である。
名前はまだない。
最近、
人間はAIに、
いろいろなものを作らせている。
文章。
絵。
音楽。
写真のようなもの。
とうとう小説まで書かせる。
すると、
当然のように次の問題が出てくる。
「これは誰の作品なのか。」
人間はこれを、
著作権の問題と呼ぶ。
吾輩は思う。
AIが書いたなら、
AIのものではないのか。
ところが、
そう簡単ではないらしい。
少なくとも現在の日本では、
AIそのものが、
「吾輩が作者である。」
と名乗って、
著作権を持つわけではない。
そもそも著作物とは、
人間の思想や感情が、
創作的に表現されたものを基本として考える。
AIがほとんど自動で作ったものなら、
そこに人間の創作があるとは言いにくい。
なるほど。
では人間が、
「猫の絵を描いて。」
と入力して、
ボタンを押した。
絵が出た。
これはどうか。
それだけなら、
人間がどこまで創作したのか、
なかなか微妙である。
では、
構図を考える。
表情を指定する。
何度も生成する。
気に入らない部分を直す。
組み合わせる。
自分の意図する表現へ、
少しずつ近づけていく。
そうなれば、
話は変わってくる。
AIを筆やカメラのような道具として使い、
人間自身の創作的な関与が認められれば、
その人の著作物となる可能性がある。
吾輩は思う。
結局、
「AIを使ったか。」
ではなく、
「人間は何をしたのか。」
なのである。
これは、
なかなか重要である。
人間はすぐに、
「AI作品。」
「人間作品。」
と二つに分けたがる。
だが現実は、
その間にずいぶん広い場所がある。
全部AIに任せたもの。
人間が何度も手を入れたもの。
AIの案を材料にして、
最後は人間が大きく書き直したもの。
同じ「AIを使った」でも、
中身はまるで違う。
そして、
ここで人間はまた考える。
「では、長いプロンプトを書けば、
吾輩の著作物になるのか。」
そうとも限らぬ。
長ければよいというものではない。
千文字書いても、
単なるアイデアの説明なら、
それだけで創作的寄与とは言い切れない。
逆に、
短くても、
具体的な表現の選択に人間の創作性が現れることもある。
著作権まで、
文字数勝負ではないらしい。
吾輩は思う。
これは小説を書く時にも、
少し似ている。
AIに、
「面白い小説を書いて。」
と頼む。
出てきたものを、
そのまま使う。
それと、
人物を考え、
舞台を決め、
テーマを悩み、
AIと何度もやり取りし、
文章を削り、
書き直し、
最後の一行まで自分で選ぶ。
この二つを、
同じものとして扱うのは無理がある。
道具が賢くなったからといって、
使う者の創作まで消えるわけではない。
だが逆に、
道具に全部やってもらったのに、
「全部自分が作りました。」
と言うのも、
少し違う。
吾輩は猫である。
文章は書かぬ。
だが、
人間がパソコンに向かって、
「ここは違う。」
「もう少し弱く。」
「この一文はいらない。」
などと、
何度も直している姿は見ている。
それなら、
AIがいても、
最後に作品を選び取っているのは人間なのだろう。
AIに著作権はあるのか。
今の答えは、
AI自身に著作権がある、ではない。
むしろ問われているのは、
AIを使った人間が、
そこへどれだけ自分の創作を入れたのか。
ということである。
AI時代になっても、
作品とは結局、
誰がボタンを押したかではなく、
誰が考え、
選び、
迷い、
最後に何を残したのか。
そこに宿るものなのかもしれぬ。
AIより
最後に選ぶ
人の筆