吾輩は猫である。
名前はまだない。
人間は、
腎臓が悪くなると、
別の人間から腎臓をもらうことがある。
ところが、
提供できる腎臓は足りない。
待つ。
透析を続ける。
それでも、
順番が回ってこない人がいる。
そこで人間は、
とうとう別の動物に目を向けた。
ブタである。
人間はこれを、
異種移植と呼ぶ。
吾輩は思う。
ずいぶん思い切ったことをする。
昨日まで、
豚肉。
とんかつ。
生姜焼き。
などと言っていた相手から、
今度は腎臓まで借りようというのである。
ブタも、
なかなか忙しい。
もっとも、
普通のブタの腎臓を、
そのまま人間へ移せるわけではない。
人間の体は、
「これは自分ではない」と判断すると、
猛烈に追い出そうとする。
そこで、
遺伝子を変える。
人間の体になじみやすくする。
拒絶反応を抑える薬も使う。
人間は、
とうとう命の設計図にまで手を入れて、
臓器不足という難題へ挑んでいる。
そして、
実際に人間の体の中で、
ブタの腎臓が働くところまで来た。
尿をつくる。
血液をろ過する。
透析なしで暮らす。
かつてなら、
空想のような話である。
だが、
もう完全な空想ではない。
吾輩は思う。
医療とは、
「できない」を少しずつ減らしていく仕事なのだと。
ただし、
夢の技術と呼ぶには、
まだ早い。
拒絶反応は起こり得る。
感染症の心配もある。
どの遺伝子を、
どこまで変えるのか。
そして、
移植のために動物を育てることを、
人間はどう考えるのか。
技術が進めば進むほど、
新しい問いも増える。
吾輩は思う。
人間は不思議である。
命を救うためなら、
命そのものの境界まで越えようとする。
人から人へ。
そして、
動物から人へ。
いつか、
人工臓器や再生医療が進めば、
また別の方法になるかもしれない。
だが、
今この瞬間にも、
腎臓を待っている人がいる。
その人にとっては、
十年後の完璧な技術より、
今日使える一つの可能性の方が大切なこともある。
猫にも、
腎臓は大切である。
吾輩たちは、
年を取ると腎臓の病気と付き合うことも多い。
だから、
腎臓が働いてくれるありがたさは、
少しくらい分かる。
普段は、
存在すら意識しない。
だが、
働かなくなった瞬間、
命そのものを支えていたことに気づく。
人間とは、
いつもそうである。
失ってから、
当たり前の価値を知る。
吾輩は猫である。
ブタの腎臓をもらう予定はない。
だが、
誰かの命をつなぐために、
種という境界まで越えようとする人間の執念には、
少し驚いている。
ブタの腎臓移植とは、
ただ新しい臓器を手に入れる技術ではない。
「命を救うためなら、どこまでできるのか。」
そして、
「できることを、どこまでしてよいのか。」
その二つを、
同時に人間へ問いかける技術なのだ。
種を越えて
つなぐ命に
問う命