吾輩は猫である。名はまだない。
だが、魚の香りを5km先から感知する能力がある。
ある日の昼。
飼い主が大きな紙袋をぶら下げて帰ってきた。
「ふふふ…今日のお昼は豪華だよ〜」
キッチンに並べられた二つの丼。
ひとつはまくろいくら丼。
もうひとつは鮭しらす丼。
蓋を開けた瞬間、
この世すべての“魚力”が解放された。
湯気よりも 誘惑立ちのぼる 昼の膳
飼い主は嬉々として言う。
「今日は“自分へのご褒美”ってやつ」
ふむ、ならば吾輩にも日々の癒しの対価が必要ではなかろうか。
一歩、また一歩と近づく吾輩。
テーブルの端に手をかけ、
「なあ、ひとくち…そのいくら…」というまなざしを送る。
だが飼い主、冷静。
「猫はだめー!塩分すごいんだから!」
…知っている。
塩分、醤油、わさび、猫の敵。
だが本能が、とろけるまぐろの赤に呼ばれるのだ。
仕方なく、吾輩は空箱の中に入ってみせた。
それがせめてもの、食事への抗議と参加の意思表示である。
飼い主は笑った。
「じゃあ今度は、猫用の焼きささみ丼作ろうか」
――うむ、妥協としては悪くない。
丼が空になっても、
香りだけは部屋に残る。
そして吾輩はその匂いの記憶で、
午後の昼寝をふくふくと続けるのだ。