吾輩は猫である。名はまだない。
この場所は雲の上。
標高二千メートルを越える山の上に建つ「ホテル立山」。
夜は星が降り、朝は雲が海になる。
吾輩はそのロビーの隅に棲みついた一匹の山猫である。
観光客たちは口々に言う。
「来年で閉館なんて、もったいないね」
確かに、この景色は唯一無二だ。
夏の青空も、秋の紅葉も、冬の静けさも――
すべてがここで交わってきた。
このホテルは長いあいだ、
登山者や旅人の“避難所”であり“憩い”であった。
吹雪の夜に迷った者が灯りを見て涙し、
頂を極めた者がコーヒーをすすりながら笑った。
そして吾輩は、そのすべてを足元から見つめてきた。
閉館が決まった今、
人の出入りは少し減り、
山の風が廊下を抜けていく。
だが、どこか清らかな静けさがある。
“終わり”とは、喪失ではなく“記憶の完成”なのだと、
山の空気が教えてくれる。
吾輩は猫である。名はまだない。
だがこの場所で過ごした日々を、
きっと山が覚えてくれているだろう。
雲の宿 灯をともしつつ 山眠る