【吾輩は猫である 現代版】猫視点で描くオリジナル短編

吾輩は猫である ―皇居での稲作 編―

2026年10月11日

吾輩は猫である ―皇居での稲作 編―

吾輩は猫である。
名前はまだない。

皇居と聞けば、
宮殿を思い浮かべる。

儀式。

外国からの賓客。

立派な庭。

ところが、
その一角には田んぼがある。

しかも、
天皇陛下が自ら稲を育てる。

人間はこれを、
皇居での稲作と呼ぶ。

吾輩は思う。

陛下も、
田植えをするのか。

少し意外である。

春には、
種をまく。

初夏には、
苗を植える。

秋になれば、
稲を刈る。

一年かけて、
米になる。

どれだけ立場が高くても、
植えた翌日に収穫することはできない。

稲は、
忖度して早く育ったりしない。

なかなか公平である。

天皇陛下が田に向かわれるのは、
単に農作業を体験するためではない。

日本では昔から、
米を育てることと、
実りに感謝することが、
暮らしや祭祀と深く結びついてきた。

皇居で収穫された米も、
新嘗祭などで供えられる。

吾輩は思う。

これは、
少し面白い。

国の象徴という、
ずいぶん大きな役割を持つ人が、

最後には、
一株の稲と向き合う。

水を見る。

土を見る。

育ちを待つ。

そして、
自分の手で刈る。

そこには、
便利な近道がない。

人間は、
何でも速くしようとする。

AIで速くする。

機械で速くする。

配送も速くする。

だが、
稲には稲の時間がある。

春にまいて、
夏に育ち、
秋に実る。

急げと言われても、
困るのである。

猫も同じだ。

眠い時は眠る。

腹が減れば起きる。

人間の予定表に合わせて、
成長したりはしない。

自然には、
自然の時計がある。

吾輩は思う。

皇居で稲を育てるということには、
そんな意味もあるのではないか。

国がどれだけ近代化しても、
食べ物は誰かが育てる。

どれだけ技術が進んでも、
人は自然から完全には離れられない。

一粒の米の向こうには、
土があり、
水があり、
季節があり、
人の手がある。

普段、
茶碗の中では見えなくなっているものだ。

吾輩は猫である。
米は主食ではない。

だが、
毎日飯が出てくることを
当たり前だとは思っていない。

……いや、
出てくる時間については、
かなり当然だと思っている。

皇居での稲作とは、
特別な場所で珍しく米を作る行事ではない。

日本人が長く大切にしてきた、
「育てること」と
「実りに感謝すること」を、

国の中心で、
毎年もう一度確かめる営みなのだ。


陛下でも
稲には急げと
言えぬ秋

  • この記事を書いた人

gonta

-【吾輩は猫である 現代版】猫視点で描くオリジナル短編