吾輩は猫である。名はまだない。
だが、この寺では「国宝様」と呼ばれている。
きっかけは数年前、
観光客の老婆が言った「この猫、仏像みたいね」
それを聞いた住職が笑い、
本堂の縁側に吾輩専用の座布団が敷かれた。
朝は鐘の音とともに起き、
昼は団体客の影に溶け、
夕暮れには本堂の階段で、沈む陽を見送る。
写真を撮る者、拝む者、投げ銭する者。
「ご利益ありますように」と言われるたびに、
吾輩はあくびを返す。
ありがたみとは、たぶん静けさの中にあるのだ。
ある日、テレビが来た。
「この猫が国宝級の癒しです!」と。
次の日から行列ができた。
SNSでは「拝めた」「目が合った」と盛り上がり、
なぜか勝手に“猫国宝”というタグまで付けられた。
だが、吾輩は何も変わらない。
ただ、陽のあたる縁側で寝ているだけである。
時折、古びた瓦の上を歩きながら、
かつての修行僧たちの声に耳を澄ませる。
“国宝”とは、
金では買えず、言葉では説明できず、
失われたら二度と戻らぬもの。
もしかすると、それは
吾輩のような“ただそこにいる存在”なのかもしれぬ。
吾輩は猫である。
今日も変わらず、寺の静寂を守る、
無言の守り神である。