吾輩は猫である。名はまだない。
この世界には、目に見えぬ境界がある。
それを人は「敷地」と呼び、吾輩は「縄張り」と呼ぶ。
違うのは名前だけで、意味はそう変わらぬ。
吾輩は今日も、庭の石灯籠の前でしっぽを立てる。
これは単なる生理現象ではない。
――生きている証である。
飼い主は困った顔をして言う。
「またやったの? ダメよ」
ふむ、分かってはいる。
だが吾輩としても、
この家が“吾輩の城”であることを、
風に知らせねばならぬのだ。
夜の風に混じるのは、
他の猫たちのメッセージ。
「ここは通り道」「ここは恋の季節」
そんな暗号が、匂いとなって町をめぐる。
吾輩は鼻先でそれを読み取り、
世界の地図を描いていく。
人はサインを残すために文字を書くが、
吾輩は香りを残す。
形こそ違えど、
“ここにいた”という心は同じだ。
吾輩は猫である。名はまだない。
だが、風の中で己のにおいが混ざるとき、
この世界とつながっている実感がするのだ。
残り香に 生きた証を 風が運ぶ