吾輩は猫である。名はもう、呼ばれなくなった。
この夏、初めてのお盆を迎えた。
線香の香りと、精霊馬。
仏間に飾られた、吾輩の写真。
飼い主が小さな声で言った。
「帰ってきてるかな、あの子……」
帰っているとも。
ここに、ちゃんと。
けれど、姿は見えないし、声も届かない。
ただ、思い出の隙間にそっと潜りこむ。
ふみふみしていた座布団の上、
のぞいていた冷蔵庫の下、
こっそり登って怒られた棚の上。
そこに、吾輩はいた。
初盆や 気配で帰る ひとときに
飼い主は猫じゃらしを手にして、ふと動きを止めた。
「もう、これを振る相手もいないのにね……」
いや、振ってくれれば、心が揺れる。
姿はなくとも、遊びたさは残っているのだ。
そして送り火の晩。
玄関先に小さな火が灯った。
飼い主が手を合わせながら、ぽつり。
「ほんとに帰ってきてたら、いいな」
吾輩は、煙の向こうでしっぽをふる。
帰ってきてたとも。ちゃんと。
でももう、また行かねばならぬ。
今夜の火が消えれば、また向こうの世界へ。
ただ安心してほしい。
寂しくない。思い出が、どこにもあるから。
飼い主が泣く声のそばで、
吾輩はひとつ、喉を鳴らした――
それが聞こえたかどうかは、わからない。