【吾輩は猫である 現代版】猫視点で描くオリジナル短編

吾輩は猫である ―終戦記念日 編(人間は学んだのか)―

2026年8月15日

吾輩は猫である ―終戦記念日 編(人間は学んだのか)―

吾輩は猫である。
名前はまだない。

八月十五日。

人間は、
少し静かになる。

八十年を越える昔、
長く続いた戦争が終わった日である。

人間はこれを、
終戦記念日と呼ぶ。

終戦。

なんとも穏やかな言葉である。

だが、そこへ至るまでに、
あまりにも多くの命が失われた。

戦場で倒れた者。

空襲で家を失った者。

異国から帰れなかった者。

そして、
帰ってきた後も、
戦争を背負い続けた者。

人間は誓った。

もう二度と、
こんなことは繰り返さないと。

吾輩は思う。

それから八十年以上も経ったのだから、
さぞ人間は賢くなったのだろうと。

ところが、
世界を見渡してみれば、
どうも様子がおかしい。

国境を巡って争う。

資源を巡って争う。

宗教や民族を巡って争う。

海を挟んで睨み合い、
武器を増やし、
相手より強くなろうとする。

人間はこれを、
安全保障と呼ぶ。

相手が武器を増やした。

だから、
こちらも増やす。

こちらが増やした。

すると、
向こうもまた増やす。

実に忙しい。

猫なら、
縄張り争いをすることはある。

毛を逆立て、
睨み、
唸る。

だが、
大抵はどちらかが引く。

本気で傷つけば、
自分も困るからである。

ところが人間は、
傷つくと分かっていても、
もっと大きな武器を作る。

しかも、
地球を何度も壊せそうな武器まで持ちながら、
それを「平和のため」と説明する。

吾輩には、
少々難しい。

人間は、
争う生き物なのだろうか。

力を持てば、
試したくなる。

豊かになれば、
もっと欲しくなる。

自分たちの正しさを信じれば、
相手の正しさが邪魔になる。

それが人間の本質なら、
戦争はなくならないのかもしれぬ。

だが、
それだけなら、
人間は八十年間、
何も学ばなかったことになる。

そんなことも、
あるまい。

かつて敵だった国と、
今は笑って話す人がいる。

国境を越えて、
助け合う人がいる。

戦争を知らぬ世代が、
戦争を知ろうとしている。

人間には、
争う力だけではなく、
やめる力もある。

吾輩は思う。

戦争が人間の本質なのではない。

争いたくなる本質を持ちながら、
それを抑えようとするのも、
また人間なのではないかと。

だから、
終戦記念日に必要なのは、
「戦争は悲惨だった」と
過去形で語ることだけではない。

今の世界を見て、

われわれは、
また同じ方向へ歩いていないか。

そう自分たちに問うことである。

勝つ国より、
戦わずに済ませた国の方が、
本当は立派なのかもしれぬ。

強い指導者より、
引くべき時に引ける指導者の方が、
勇気があるのかもしれぬ。

吾輩は猫である。
世界征服には興味がない。

日向が少しあり、
飯があり、
安心して眠れる場所があればよい。

考えてみれば、
人間が戦争で守りたいものも、
最後はそれほど違わないのではないか。

家がある。

家族がいる。

明日が来る。

それを守るために戦争を始め、
その戦争でそれらを失う。

そこだけは、
八十年経っても、
吾輩には理解できないのである。

終戦記念日とは、
昔の戦争が終わった日ではない。

人間が今日もなお、
争う本能と理性のどちらを選ぶのかを、
静かに問われる日なのだ。


八十年
まだ睨み合う
人の性

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gonta

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