吾輩は猫である。
名前はまだない。
八月十五日。
人間は、
少し静かになる。
八十年を越える昔、
長く続いた戦争が終わった日である。
人間はこれを、
終戦記念日と呼ぶ。
終戦。
なんとも穏やかな言葉である。
だが、そこへ至るまでに、
あまりにも多くの命が失われた。
戦場で倒れた者。
空襲で家を失った者。
異国から帰れなかった者。
そして、
帰ってきた後も、
戦争を背負い続けた者。
人間は誓った。
もう二度と、
こんなことは繰り返さないと。
吾輩は思う。
それから八十年以上も経ったのだから、
さぞ人間は賢くなったのだろうと。
ところが、
世界を見渡してみれば、
どうも様子がおかしい。
国境を巡って争う。
資源を巡って争う。
宗教や民族を巡って争う。
海を挟んで睨み合い、
武器を増やし、
相手より強くなろうとする。
人間はこれを、
安全保障と呼ぶ。
相手が武器を増やした。
だから、
こちらも増やす。
こちらが増やした。
すると、
向こうもまた増やす。
実に忙しい。
猫なら、
縄張り争いをすることはある。
毛を逆立て、
睨み、
唸る。
だが、
大抵はどちらかが引く。
本気で傷つけば、
自分も困るからである。
ところが人間は、
傷つくと分かっていても、
もっと大きな武器を作る。
しかも、
地球を何度も壊せそうな武器まで持ちながら、
それを「平和のため」と説明する。
吾輩には、
少々難しい。
人間は、
争う生き物なのだろうか。
力を持てば、
試したくなる。
豊かになれば、
もっと欲しくなる。
自分たちの正しさを信じれば、
相手の正しさが邪魔になる。
それが人間の本質なら、
戦争はなくならないのかもしれぬ。
だが、
それだけなら、
人間は八十年間、
何も学ばなかったことになる。
そんなことも、
あるまい。
かつて敵だった国と、
今は笑って話す人がいる。
国境を越えて、
助け合う人がいる。
戦争を知らぬ世代が、
戦争を知ろうとしている。
人間には、
争う力だけではなく、
やめる力もある。
吾輩は思う。
戦争が人間の本質なのではない。
争いたくなる本質を持ちながら、
それを抑えようとするのも、
また人間なのではないかと。
だから、
終戦記念日に必要なのは、
「戦争は悲惨だった」と
過去形で語ることだけではない。
今の世界を見て、
われわれは、
また同じ方向へ歩いていないか。
そう自分たちに問うことである。
勝つ国より、
戦わずに済ませた国の方が、
本当は立派なのかもしれぬ。
強い指導者より、
引くべき時に引ける指導者の方が、
勇気があるのかもしれぬ。
吾輩は猫である。
世界征服には興味がない。
日向が少しあり、
飯があり、
安心して眠れる場所があればよい。
考えてみれば、
人間が戦争で守りたいものも、
最後はそれほど違わないのではないか。
家がある。
家族がいる。
明日が来る。
それを守るために戦争を始め、
その戦争でそれらを失う。
そこだけは、
八十年経っても、
吾輩には理解できないのである。
終戦記念日とは、
昔の戦争が終わった日ではない。
人間が今日もなお、
争う本能と理性のどちらを選ぶのかを、
静かに問われる日なのだ。
八十年
まだ睨み合う
人の性