吾輩は猫である。
名はとうに忘れた。
呼ばれるたび、別の名をもらったからだ。
広島の港町にいた。
戦の影がじわりと迫っても、
吾輩の一日は変わらなかった。
縁側で丸くなり、
おひつの米の匂いを嗅ぎ、
子どもたちの足元をすり抜けていた。
朝、空襲警報が鳴っても、
夕方には家の灯がともっていた。
人間たちは怯えながらも、
味噌汁をすすり、笑い合っていた。
そして、ある夏の日。
空が光り、地面が揺れた。
吾輩は、生き残った。
でも、家も、人も、いつもの声も、どこにもなかった。
焼け跡の炭の中、
小さな草の影にうずくまりながら、
吾輩は初めて、世界がひとつ終わる音を聞いた。
それでも、生きた。
生きて、町が静かに再生していくのを見た。
誰かが瓦礫に花を挿し、
誰かが紙と鉛筆で、風景を描いた。
ある日、吾輩は新しい名をつけられた。
「スミレ」と。
その名をくれた少女は、絵を描くのが好きだった。
小さな部屋で笑いながら、
「また、明日ね」と言った。
吾輩は猫である。
ただ一匹の命。
この世界の片隅で、
それでも生きて、誰かを慰める、小さな存在である。