吾輩は猫である。
今宵は少し特別な舞台に立つ。
場所は町の能楽堂。
漆黒の板張り、松の描かれた鏡板、
そして張り詰めた静けさ。
観客の息づかいすら、音として響く。
今夜の演目は「猫返し」。
かつて人間に助けられた猫が、
恩返しに現れるという物語。
まことに吾輩向きの役である。
囃子方がゆるやかに笛を吹き、
小鼓の音が空気を切る。
吾輩は面(おもて)をつけぬ代わりに、
毛並みをしっとりと整え、
一歩、また一歩と橋掛かりを進む。
足音は立てぬ。
しっぽの先まで、舞の一部である。
観客の視線は静かに集まり、
舞台は吾輩と音だけの世界になる。
一挙手一投足に意味があり、
目線の移し方ひとつで、
物語が深まっていく。
終盤、太鼓が打ち鳴らされ、
吾輩は舞台中央で正座し、
しずかに前足を揃える。
その瞬間、客席の空気がふっと和らぎ、
物語は静かに幕を閉じた。
終演後、楽屋に戻ると、
老練のシテ方がぽつりと呟く。
「猫殿、今日は見事な間(ま)でしたな」
吾輩はしっぽをひと振りして応える。
能とは、静けさの中にすべてを込める芸だと、
改めて知った夜だった。
吾輩は猫である。
今日も一座の一員として、
時を超える舞に身をゆだねるのである。