吾輩は猫である。
人は「見えるようにする」ために、目に手を入れる。
それを、レーシックという。
角膜の形を整え、光の屈折を変えることで、
ぼやけていた世界を、くっきりと映し出す。
仕組みは単純に見える。
だが、その決断は軽くはない。
目は、日々使うものだ。
ゆえに、その変化は取り消しが効かぬ。
人はそこで迷う。
このままでも困らぬのではないか。
だが、より良く見えるなら、その方がよいのではないか。
どちらも、間違いではない。
レーシックは、魔法ではない。
適応があり、限界があり、
すべての人に同じ結果をもたらすわけではない。
それでもなお、多くの人が選ぶのは、
「見え方」が日常そのものを変えるからである。
ぼやけていたものが、輪郭を持つ。
遠くのものが、自然に目に入る。
それは単なる視力の問題ではない。
世界との距離が変わるということだ。
だが、ここで一つ忘れてはならぬ。
見えるようになることと、
理解できることは、別である。
はっきり見えるからといって、
すべてが分かるわけではない。
むしろ、見えすぎることで、
本質を見失うことすらある。
吾輩は猫である。
暗がりでも、そこそこ見える。
だが、すべてを見ようとはしない。
人よ。
視界を整えるのはよい。
だが、その先にあるものを、
どう見るかは、別の話である。
見えるほど
見えていないと
知る視界