吾輩は猫である。名はまだない。
この冬、ロシアの雪深い町に一人の少女がいた。
十八歳のその瞳は澄みきっていて、
彼女の手にはいつも、擦り切れたスケッチブックがあった。
紙の上には、夢のような服や街の風景が描かれている。
少女は言った。
「いつか、人を幸せにするデザインをつくりたい」
その声は震えていたが、芯は強かった。
家族は心配し、友人は笑った。
それでも彼女は、春の雪解けとともに首都の大学へと旅立った。
吾輩はその夜、彼女の足元を通り過ぎた。
暖かな灯の中で、彼女は裁縫道具を詰めながらつぶやいた。
「怖いけれど、行く」
――その言葉に、吾輩のひげがかすかに揺れた。
人間は不思議な生き物である。
寒さや不安を超えて、
まだ見ぬ世界に手を伸ばす。
猫ならば、陽だまりを選ぶのが常だが、
人はあえて吹雪の中を歩く。
その先に、美しい光があると信じて。
吾輩は猫である。名はまだない。
だが彼女の背を押した夜の風の中に、
確かに春の匂いを感じた。
雪の街 針の先にも 春の夢