吾輩は猫である。
名前はまだない。
人間は、
道をつくる。
鉄道を通す。
川を広げる。
街を守る。
そのためには、
どうしても必要になる土地がある。
だが、
その土地には、
すでに誰かが住んでいることもある。
人間はこれを、
土地収用と呼ぶ。
吾輩は思う。
なかなか難しい話である。
国や自治体は言う。
「みんなのために必要です。」
そこに住む人は言う。
「だが、ここは私の家です。」
どちらも、
嘘ではない。
道路ができれば、
多くの人が便利になる。
堤防ができれば、
多くの命が守られる。
だが、
そのために一人の暮らしを動かしてよいのか。
人間は、
そこで法律をつくった。
公共のために本当に必要なのか。
どこまで土地が必要なのか。
そして、
土地や建物を失う人には、
正当な補償をする。
なるほど。
金を払えばよいらしい。
だが、
吾輩は思う。
土地の値段と、
そこに暮らした時間の値段は、
同じなのだろうか。
三十年住んだ家。
子供を育てた部屋。
毎朝歩いた道。
庭に植えた木。
隣人との付き合い。
それらに、
一平方メートルいくらと
値札を付けるのは難しい。
猫にも、
縄張りがある。
お気に入りの窓辺。
いつもの昼寝場所。
毎日匂いを確認する塀。
人間から見れば、
どこでも同じ場所に見えるかもしれない。
だが、
吾輩にとっては違う。
「こちらにも同じ広さの場所を用意しました。」
と言われても、
そういう問題ではないのである。
匂いが違う。
光が違う。
安心が違う。
人間の故郷も、
きっと似ている。
だから、
土地収用とは、
土地だけを動かす話ではない。
人の暮らしを、
丸ごと動かす話なのだ。
吾輩は思う。
公共の利益は大切である。
だが、
「みんなのためだから。」
その一言だけで、
一人の思いを小さくしてはいけない。
百人が便利になるから、
一人は我慢しろ。
それでは、
あまりに簡単である。
反対に、
「自分の土地だから、
何があっても動かない。」
それだけでも、
社会は進まないことがある。
だから人間は、
話し合う。
説明する。
補償する。
代わりの場所を探す。
そして、
最後には法律で決めることもある。
民主主義とは、
全員が満足する仕組みではないのかもしれぬ。
どうしても誰かに負担をお願いしなければならない時に、
その負担を当たり前と思わず、
できる限り丁寧に引き受ける仕組みなのだろう。
吾輩は猫である。
土地の登記簿は持たぬ。
だが、
いつもの場所を突然、
「明日から使えません。」
と言われれば、
かなり困る。
土地収用とは、
公共のために土地を手に入れる制度ではない。
社会全体の必要と、
そこに暮らしてきた一人の人生を、
どこまで丁寧に両立させられるかを問う制度なのだ。
地図には、
一本の道路しか描かれない。
だが、
その線の下には、
誰かが暮らしてきた時間があることを、
忘れてはならないのである。
道一本
その下にある
人の時