【吾輩は猫である 現代版】猫視点で描くオリジナル短編

吾輩は猫である ―AIに著作権はあるのか 編―

2026年10月14日

吾輩は猫である ―AIに著作権はあるのか 編―

吾輩は猫である。
名前はまだない。

最近、
人間はAIに、
いろいろなものを作らせている。

文章。

絵。

音楽。

写真のようなもの。

とうとう小説まで書かせる。

すると、
当然のように次の問題が出てくる。

「これは誰の作品なのか。」

人間はこれを、
著作権の問題と呼ぶ。

吾輩は思う。

AIが書いたなら、
AIのものではないのか。

ところが、
そう簡単ではないらしい。

少なくとも現在の日本では、
AIそのものが、

「吾輩が作者である。」

と名乗って、
著作権を持つわけではない。

そもそも著作物とは、
人間の思想や感情が、
創作的に表現されたものを基本として考える。

AIがほとんど自動で作ったものなら、
そこに人間の創作があるとは言いにくい。

なるほど。

では人間が、

「猫の絵を描いて。」

と入力して、
ボタンを押した。

絵が出た。

これはどうか。

それだけなら、
人間がどこまで創作したのか、
なかなか微妙である。

では、

構図を考える。

表情を指定する。

何度も生成する。

気に入らない部分を直す。

組み合わせる。

自分の意図する表現へ、
少しずつ近づけていく。

そうなれば、
話は変わってくる。

AIを筆やカメラのような道具として使い、
人間自身の創作的な関与が認められれば、
その人の著作物となる可能性がある。

吾輩は思う。

結局、

「AIを使ったか。」

ではなく、

「人間は何をしたのか。」

なのである。

これは、
なかなか重要である。

人間はすぐに、

「AI作品。」

「人間作品。」

と二つに分けたがる。

だが現実は、
その間にずいぶん広い場所がある。

全部AIに任せたもの。

人間が何度も手を入れたもの。

AIの案を材料にして、
最後は人間が大きく書き直したもの。

同じ「AIを使った」でも、
中身はまるで違う。

そして、
ここで人間はまた考える。

「では、長いプロンプトを書けば、
吾輩の著作物になるのか。」

そうとも限らぬ。

長ければよいというものではない。

千文字書いても、
単なるアイデアの説明なら、
それだけで創作的寄与とは言い切れない。

逆に、
短くても、
具体的な表現の選択に人間の創作性が現れることもある。

著作権まで、
文字数勝負ではないらしい。

吾輩は思う。

これは小説を書く時にも、
少し似ている。

AIに、

「面白い小説を書いて。」

と頼む。

出てきたものを、
そのまま使う。

それと、

人物を考え、
舞台を決め、
テーマを悩み、
AIと何度もやり取りし、
文章を削り、
書き直し、
最後の一行まで自分で選ぶ。

この二つを、
同じものとして扱うのは無理がある。

道具が賢くなったからといって、
使う者の創作まで消えるわけではない。

だが逆に、
道具に全部やってもらったのに、

「全部自分が作りました。」

と言うのも、
少し違う。

吾輩は猫である。

文章は書かぬ。

だが、
人間がパソコンに向かって、

「ここは違う。」

「もう少し弱く。」

「この一文はいらない。」

などと、
何度も直している姿は見ている。

それなら、
AIがいても、
最後に作品を選び取っているのは人間なのだろう。

AIに著作権はあるのか。

今の答えは、
AI自身に著作権がある、ではない。

むしろ問われているのは、

AIを使った人間が、
そこへどれだけ自分の創作を入れたのか。

ということである。

AI時代になっても、
作品とは結局、

誰がボタンを押したかではなく、
誰が考え、
選び、
迷い、
最後に何を残したのか。

そこに宿るものなのかもしれぬ。


AIより
最後に選ぶ
人の筆

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gonta

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