吾輩は猫である ― 同郷の将棋棋士 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 この町から、将棋の世界で名を上げる若者が出たと聞いた。飼い主は新聞を広げ、テレビを食い入るように見つめている。「同郷の棋士だぞ」と誇らしげに呟く。 将棋盤の上では、木駒がカツンカツンと響く。その音は吾輩の耳に、爪を研ぐ音や、魚の骨をかじる音に似て心地よい。 猫の世界にも陣取り合戦はある。日なたの場所をめぐってにらみ合い、しっぽを高く掲げて一歩ずつ進む。人間の将棋は、その知恵比べを盤上に凝縮したものだろう。 飼い主は棋士の一手一手に一喜一憂する。「勝てば郷土の誉れ」「負けても ...
吾輩は猫である ― 遠い山なみの光 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 飼い主が観ていた映画は「遠い山なみの光」。舞台は戦後の長崎と、のちのイギリス。母が過去を語り、娘が耳を傾ける。だが記憶は曖昧で、どこまでが真実でどこからが嘘なのか、吾輩にはわからぬ。 けれど人間とはそういう生き物なのだろう。痛みを包むために、未来を生き抜くために、記憶を光の角度で塗り替える。猫の記憶が日なたの暖かさに結びつくように、人の記憶もまた、温もりと影の間で揺れている。 スクリーンの光に照らされる飼い主の横顔は、どこか遠い山なみの向こうを見ているようであった。吾輩はた ...
吾輩は猫である ― 猫の靴 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 ある日、飼い主が小さな箱を持ち帰った。中から出てきたのは――吾輩用の「猫の靴」なるもの。肉球を守るためだと説明されたが、吾輩にしてみれば唐突な試練であった。 片足を通されただけで、地面の感触が消え、ひげの先までむず痒い。四足すべてを履かされたときには、歩くたびにカタカタ音がして、吾輩はまるで不器用な人形のようであった。 飼い主は「かわいい!」と声を上げ、写真を撮りたくて仕方がないらしい。だが吾輩は心の中で嘆く。「猫の誇りは爪と肉球にあり。靴など要らぬ!」 もっとも、灼けたア ...
吾輩は猫である ― ゴールドバッハ予想 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 飼い主が机に向かって数字とにらめっこをしている。黒板には「偶数はすべて二つの素数の和で表せる」と書かれている。これが「ゴールドバッハ予想」なるものらしい。 吾輩は数字より煮干しに興味があるが、飼い主の真剣な顔を見ているうちに考え込んでしまった。偶数とは、吾輩に言わせれば魚二匹。それを二つの素数――例えばアジとサバに分ければ、確かに晩ご飯は成立する。 しかし問題は、どんな偶数でも必ず二匹に分けられるかどうか。もし魚が三匹しか手に入らなかったら?いや、足りぬ時は昼寝でごまかすの ...
吾輩は猫である ― 総裁選前倒し 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 このところ人間の世界では、「総裁選を前倒しする」という話で持ちきりらしい。新聞が騒ぎ、テレビが連呼し、飼い主までもスマホを覗きながら「誰が立つか」と呟いている。 猫の世界でも似たことはある。路地裏のボスの座をめぐり、次の季節を待たずに争いが始まるのだ。魚屋の裏を縄張りにするか、それとも市場の残飯を抑えるか。利害がからめば、先に仕掛けた方が有利――それは人間も猫も変わらぬ理である。 ただ、猫の選挙は単純だ。強さと度胸、そして誰よりも大きな声で「にゃあ」と鳴けるかどうか。政策だ ...
吾輩は猫である ― 世界陸上 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 このところ人間どもは夜更かし気味だ。どうやら「世界陸上」とやらが開かれており、テレビの前で声を上げては拍手をしている。 画面には、風のように駆ける人々の姿。筋肉がしなやかに躍動し、スタートの銃声とともに飛び出す様は、まるで野良猫が魚屋に突進する瞬間のごとし。 吾輩は思わず比べてみる。百メートル走なら、人間より吾輩の方が速い。高跳びだって、机から棚へひと跳びで軽々と超える。だが人間は、自らの限界を競い合い、世界一を決めることに誇りを見出す。その執念こそ、猫には真似できぬもので ...
吾輩は猫である ― 猫呪術師 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 だが、ただの猫ではない。路地裏の闇に潜み、月の光を背に受け、古き言葉を喉奥で転がせば、毛並みに刻まれた呪は目覚める。 人は知らぬ。吾輩のしっぽが一振りすれば、雨雲は割れ、鼠どもは夢の中で踊り出す。ひげが震えれば、人の悪しき心も和らぎ、やがて眠りに落ちる。 この街の平穏は、人の法律だけで守られているのではない。猫呪術師たちが、夜な夜な闇に結界を張り、災いを追い払っているからなのだ。 もっとも、吾輩自身は大きな野望を持たぬ。ただ飼い主の安眠と、一皿のカリカリの無事を祈るばかり。 ...
吾輩は猫である ― 三体問題 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 昼下がりの縁側で、飼い主が分厚い本を開いていた。「三体問題」とやらに頭を抱えている。太陽と地球と月――三つの天体の動きを正確に解くのは、人間にとっても難題らしい。 吾輩はしっぽを揺らしながら思う。猫の世界にも三体問題はある。飯をめぐる猫三匹の睨み合い。一皿に寄れば争いが起き、互いに譲らねば毛が逆立つ。結局、誰が先に食べるかは、数式ではなく気分次第。 人間は計算に挑むが、自然はあまりに自由で、完全には読めぬ。吾輩にしても、昼寝の場所を決めるのは太陽の光、風の流れ、そして気まぐ ...
吾輩は猫である ― 猫からみた太平洋戦争 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 あの戦の頃、町は静かに色を失っていた。魚屋の軒先からは鯵も鰯も消え、人々は芋や麦を分け合い、吾輩の腹も常に空っぽであった。 空が唸りを上げ、爆音が町を覆うたび、吾輩は路地裏に身を潜めた。窓を黒布で覆う人間の姿は、まるで夜そのものを抱きしめているようであった。 吾輩が忘れぬのは、子どもたちの笑顔である。物も食も乏しいなかでも、空き地で小石を蹴り、吾輩のしっぽを追いかけて笑っていた。その笑顔すら、やがて戦火に呑み込まれていった。 やがて戦が終わり、焼け跡には草が芽吹き、人は再び ...
吾輩は猫である ― 令和七年の夏 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 今年の夏は例年にも増して暑い。人間のニュースでは「観測史上最高」だの「猛暑日続き」だのと叫んでいる。路地裏のアスファルトは灼けるようで、肉球に触れるとじりりと音がしそうだ。 飼い主は扇風機とエアコンを駆使し、「節電」と「熱中症対策」の板挟みに悩んでいる。冷房の効いた部屋で寝転ぶ吾輩を横目に、電気代の明細を見てため息をつく姿が哀れでならぬ。 それでも夏には夏の楽しみがある。縁側から聞こえる蝉しぐれ、夜空に咲く花火の轟き、そして冷やしスイカを頬張る人間の笑顔。吾輩はただ、その足 ...









