吾輩は猫である ―作家 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 白い紙の前で、動かぬ時間がある。書けば進むが、書けぬと止まる。 人間はこれを、作家と呼ぶ。 外からは見えぬ。だが、内側では、多くが動いている。 言葉を探し、並べ、削り、また戻す。 一行に、時間がかかる。だが、その一行が、全体を支える。 吾輩は思う。書くとは、足すことではないと。 削ることでもある。 残す言葉と、捨てる言葉。その選び方で、輪郭が決まる。 人間は、伝えようとする。だが、すべては書けぬ。だからこそ、余白が生まれる。 読まれることで、完成する。だが、書く段階では、 ...
吾輩は猫である ―芸能生活 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 光が、常にある場所がある。強く、逃げ場のない光。 人間はそれを、芸能生活と呼ぶ。 見られることが、前提となる。振る舞いも、言葉も、常に外へ向いている。 だが、光の裏には、必ず影がある。 吾輩は思う。見られるとは、なかなか重いことだと。 期待され、比較され、評価される。それでも、立ち続ける。 同じように見えて、同じ日はない。調子の良い日も、そうでない日も、すべてが並ぶ。 人間は、華やかさを見る。だが、続けるための整えは、あまり見えぬ。 体調、気持ち、距離。それらを保ちながら ...
吾輩は猫である ―団体戦編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 一匹ではなく、複数で臨む。それだけで、意味が変わる。 人間はこれを、団体戦と呼ぶ。 それぞれに、役割がある。得意な者、粘る者、流れを変える者。 同じ力でも、順番が変われば、結果は変わる。 吾輩は思う。団体とは、足し算ではないと。 一人が勝てばよいわけではない。全体で、一つの結果を作る。 調子の良い者がいれば、そうでない者もいる。それでも、支え合い、流れを保つ。 自分の一局だけを見れば、狭くなる。全体を見れば、役割が変わる。 攻めるべき時、耐えるべき時。それは、自分ではなく ...
吾輩は猫である ―沙羅 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 朝、気づけば花が落ちている。音もなく、気配だけを残して。 人間はこれを、沙羅と呼ぶ。 咲いている姿より、落ちた後に気づかれる花。一日で散るとも言われ、長くは留まらぬ。 だが、短さは、軽さではない。 一瞬に、すべてを込める。それが、沙羅の在り方だ。 吾輩は思う。長く続くことだけが、価値ではないと。 短くても、深ければ残る。見逃されても、確かに在ったものは消えぬ。 人間は、目立つものを追う。だが、静かなものほど、後から心に残る。 朝露の中で、白い花が地にある。誰も見ていなくて ...
吾輩は猫である ―坂道 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 道が、少しだけ傾いている。平らなはずの場所が、いつの間にか上りになっている。 人間はこれを、坂道と呼ぶ。 進むだけで、少し重い。同じ歩みでも、息が変わる。 だが、止まる理由にはならぬ。 吾輩は思う。上りとは、見えぬ負荷だと。 一歩ごとに、確かに消耗する。だが、それは確かに積み上がる。 振り返れば、景色が変わる。高さは、後からわかる。 人間は、楽な道を好む。だが、楽な道には、変化が少ない。 坂は、負担である。だが、意味もある。 上る途中は、ただきつい。だが、越えた後に、形に ...
吾輩は猫である ―技術士受験再起編―
吾輩は猫である。一度、届かなかったという。 人はそれを「不合格」と呼ぶ。線を引かれ、区切られ、こちら側とあちら側に分けられる。 だが吾輩から見れば、それは少し違う。 試験とは、結果である前に、過程である。書いたこと、考えたこと、そして問われたときに、どう答えたか。 それらが、形になったに過ぎぬ。 ゆえに、届かなかったという事実は、否定ではない。ただ、まだ一致していなかったというだけである。 問われているものと、示したものが。 人は悔いる。なぜあのとき、あの言葉が出なかったのかと。 だが、それもまた当然であ ...
吾輩は猫である ―レーシック編―
吾輩は猫である。人は「見えるようにする」ために、目に手を入れる。 それを、レーシックという。 角膜の形を整え、光の屈折を変えることで、ぼやけていた世界を、くっきりと映し出す。 仕組みは単純に見える。だが、その決断は軽くはない。 目は、日々使うものだ。ゆえに、その変化は取り消しが効かぬ。 人はそこで迷う。このままでも困らぬのではないか。だが、より良く見えるなら、その方がよいのではないか。 どちらも、間違いではない。 レーシックは、魔法ではない。適応があり、限界があり、すべての人に同じ結果をもたらすわけではな ...
吾輩は猫である ―インプラント編―
吾輩は猫である。人は、失ったものを取り戻そうとする。 歯もまた、その一つである。 欠けたままにしておくこともできる。別のもので補うこともできる。そして、元あった場所に「根」から作り直す方法もある。 それが、インプラントである。 顎の骨に、静かに基礎を打ち込む。目には見えぬところに、土台を築く。その上に、形を整え、機能を取り戻す。 外から見れば、ただの歯である。だが、その内側には、時間と手間と判断が積み重なっている。 ここで問われるのは、「元に戻す」とは何か、ということである。 完全に同じものは戻らぬ。だが ...
吾輩は猫である ―保護猫の日編―
吾輩は猫である。名はある者もいれば、まだ無い者もいる。 本日、保護猫の日である。人の側から見れば「守る日」なのだろう。だが、猫の側から見れば、それは少し違う。 吾輩らは、守られるために生きているわけではない。ただ、生き延びてきただけである。 外で生まれ、外で暮らし、時に人と出会い、時に見過ごされる。 その中で、ほんの少しだけ運が巡り、「保護された」と呼ばれる状態に至る。 だが、それは終点ではない。むしろ、もう一度“関係”を始める入口である。 人は言う。「かわいそうだから助ける」と。 それも一つの真実である ...
吾輩は猫である ―歯のCT編―
吾輩は猫である。本日、人は「歯の中を覗く」という。 外から見えるものだけでは足りぬらしい。内側に何があるかを、確かめたいのだという。 それを可能にするのが、歯のCTである。 人はこれまで、平面で見てきた。影として、輪郭として、おおよその形を推し量っていた。 だが、CTは違う。重なりをほどき、奥行きを与え、見えぬ構造を露わにする。 神経の走り方。骨の厚み。隠れた病変の気配。 それらは、表からは分からぬ。 ゆえに人は、ようやく理解する。見えているものだけで判断することの危うさを。 これは歯に限った話ではない。 ...









