吾輩は猫である ―握り寿司 編―
吾輩は猫である。名はまだない。だが、寿司には一家言ある。 かつて、路地裏の寿司屋に迷い込んだことがある。「江戸前の粋ってやつを、知ってみたい」と思ったからだ。カウンターの檜の香り、職人の手元から舞う白い湯気、そして、目の前に置かれたのは――赤身の握り。 静かだった。客は誰もしゃべらない。シャリの湯気と、炙りの煙だけが語っていた。 飼い主は言う。「猫が寿司なんて…冗談でしょ?」 違うのだ。我々猫族は、本能的に“良い魚”を知っている。脂の乗り、酢飯の温度、あの一貫に込められた「沈黙の技術」に、胸が打たれるので ...
吾輩は猫である ―アイスクリーム食べ歩き 編―
吾輩は猫である。名はまだない。だが、“アイスの名店”はすべて知っている。 暑い日だった。道端のアスファルトが肉球を炙るような午後、吾輩は「アイスクリーム食べ歩き」に出かけた。 まずは商店街の老舗和菓子屋。店先で出していたのは、抹茶と黒蜜のあいがけソフト。香り高く、まろやか。舐めるというより、嗅ぐに近い至福である。 次に訪れたのは駅前の観光案内所の脇。ひっそりとキッチンカーが停まり、そこには「トマトジェラート」と書かれていた。トマト…?と眉をひそめたが、意外と酸味が効いていて夏向きだった。 路地裏のカフェで ...
吾輩は猫である ―ジャングリア どうなる? 編―
吾輩は猫である。名はまだない。だが今、沖縄の森の端っこにて、耳を澄ませている。その名も「ジャングリア」――新しいテーマパークの鼓動が聞こえるからだ。 最初は観光バスの列に驚いた。次に、上空をゆっくりと漂う気球の影に目を細めた。「動物と自然とテクノロジーの融合」だと人間は言う。なるほど、アバターもいればカピバラもいる。冷房完備の檻と、スマホを構える人々。 だが、森に住む我ら猫族としては、少しばかり気がかりな点もある。 “にぎわい”と“かき乱し”は、紙一重。 飼い主の祖母が言っていた。「昔は、このあたり一帯、 ...
吾輩は猫である ―北海道40度 編 ―
吾輩は猫である。名はまだない。暑さにはめっぽう弱い。だが、よりによって“北海道”で熱中症になりかけるとは、誰が想像しただろうか。 「北海道が40度です」テレビから流れたその言葉に、飼い主は氷を落とした。エアコンのない実家に帰省していた人々は、急遽ホテルに避難する騒ぎだ。 北の大地 避暑地どころか 灼熱地 札幌の猫友からLINEが届いた。「こっちは溶ける、畳が灼けてる、もう“涼しい顔してラーメン”なんて無理ニャ」 本州から移住した猫たちが語る。「涼しさにひかれて越してきたのに、これでは詐欺だ」と。 農家の猫 ...
吾輩は猫である ― スーパーマンは移民 編 ―
吾輩は猫である。名はまだない。だがこのところ、ヒーローものの映画ばかり見せられている。 特に飼い主が好きなのは、スーパーマン。「やっぱ正統派って感じで、いいよね〜」空を飛び、ビルを持ち上げ、正義を貫く男。 だが、ふと気づいた。――彼は、地球生まれではない。 故郷を失い、宇宙から飛来し、地球に預けられた小さな命。彼は“地球人のふり”をして暮らしている。 ふむ。それって、猫にとっての“人間社会”と、どこか似ているではないか。 居場所なく 居場所となりぬ 他所の地で 我々猫も、本来は野を歩く存在。だが今は、家具 ...
吾輩は猫である ― 長崎の夏 編―
吾輩は猫である。名はまだない。生まれは路面電車の走る街。夏になると、観光客が増える。ハウステンボス、グラバー園、眼鏡橋――けれど、8月9日だけは、町の時間が一瞬止まる。 正午前、平和公園の空に鐘が鳴る。遠くからでも、その音はまっすぐ響いてくる。人間たちは立ち止まり、吾輩もいつもより静かに、蝉の声と空の色を見つめる。 祈りとは 声なき夏の 風である この町の夏は、美しくて、やさしくて、そして痛い。飼い主は、時折ぼそりと語る。「祖母はね、爆心地のすぐ近くで…」それ以上は、語らない。 その言葉の先にあるものが、 ...
吾輩は猫である ― ゴジラとニャジラ 編 ―
吾輩は猫である。名はまだない。だが最近は、「ニャジラ様」と呼ばれている(勝手に)。 きっかけは、テレビに映ったあの姿。背びれを揺らし、街を踏み鳴らすゴジラ。 飼い主がぼそりとつぶやいた。「…あれ、うちの猫が夜中に廊下を走る音に似てる」 失礼な話である。こちらは破壊など望んでいない。ただ夜という名の戦場で、床のきしみとエモーションを表現しているだけだ。 とはいえ、思った。――吾輩も、何か大きな存在になってみたくはある。 夢の中で、吾輩は「ニャジラ」として目覚めた。 巨大な肉球。鋭いひげレーダー。しっぽはビル ...
吾輩は猫である ― 家系ラーメン戦争編―
吾輩は猫である。名はまだない。だが、この通りに漂う香りだけは忘れない。豚骨と鶏油とニンニク――それは、町の空気を支配する香り。 今日も店の前に人が並ぶ。隣の新店舗がオープンしたらしく、かつての本家、直系、分家、独立系が火花を散らしている。 「うちは“家系の中の家系”だから!」「いや、うちは“本物のスープ”使ってるから!」 人間というのは、ラーメン一杯でここまで熱くなれるのかと、吾輩は湯気の中で首をかしげた。 味の前 系譜で揉める 人の性(さが) かつてこの路地には、煮干しそばの店もあった。だが今は、全方位 ...
吾輩は猫である ― 現在の原爆の日 編―
吾輩は猫である。名はまだない。だが、毎年八月六日の朝、この家の空気が少し違うのは、知っている。 飼い主はテレビをつけ、静かに目を伏せている。画面には折鶴、鐘の音、白い花。そして、あの言葉――「二度と繰り返しませんように」 記憶とは 風よりかすか 蝉しぐれ 人間たちは忙しくなりすぎた。防災アプリはあっても、「平和アプリ」は更新されぬまま。 子どもは言う。「学校で黙祷したけど、なんでだっけ?」飼い主は答えに詰まる。“説明の難しい静けさ”が、この日にはある。 かつて、この家にも祖母と呼ばれる人がいた。原爆を体験 ...
吾輩は猫である ― 熊 編 ―
吾輩は猫である。名はまだない。だが、ここ数日、町が妙にざわついている。 「また出たらしいよ、熊」「通学路の近くだって。怖いねえ」――人間たちが声をひそめるたびに、パトカーとヘリコプターの音が重なる。 飼い主は玄関の戸締まりを確かめながら言った。「チョビ、お前も気をつけてな」吾輩は首をかしげる。熊と吾輩、似ても似つかぬのに、同じ“野生”という一括りで語られることもある。 山が痩せてきたのは、知っている。どんぐりの数も減った。人間が造成し、柵を立て、そのくせ、果実を地面に放って帰る。 熊よ熊 お前の罪は 空腹 ...









