吾輩は猫である。
名前はまだない。
人間は、
自分たちがどこから来たのかを、
ずいぶん気にする。
祖先を調べ、
骨を掘り、
とうとう何万年も前のDNAまで読むようになった。
そして、
小さな骨のかけらから、
知らなかった人類を見つけた。
人間はこれを、
デニソワ人と呼ぶ。
吾輩は思う。
ずいぶん少ない証拠から、
ずいぶん大きな話になったものだと。
だが、
DNAはなかなか正直らしい。
デニソワ人。
ネアンデルタール人。
そして、
今を生きる人間。
昔の地球には、
「人類」が一種類だけいたわけではなかった。
出会った。
すれ違った。
時には争い、
時には一緒になった。
そして、
子孫を残した。
人間は、
歴史を一本の線にしたがる。
昔の人から、
今の人へ。
古い者が消え、
新しい者が残った。
そう並べれば、
分かりやすい。
だが、
実際はもう少し複雑だったらしい。
枝分かれしたと思えば、
また交わる。
遠くへ行った者が、
別の環境に適応する。
そして、
その一部が今の人間の中にも残る。
チベット高原で暮らす人々の高地適応に関係する遺伝子の一部にも、
デニソワ人に由来すると考えられるものがあるという。
つまり、
デニソワ人は完全に消えたとも言い切れない。
姿はなくとも、
痕跡は残っている。
吾輩は思う。
人間は、
「純粋」という言葉を好むことがある。
純粋な血。
純粋な民族。
純粋な何々。
だが、
何万年も遡れば、
どうも話はそんなに綺麗ではない。
出会い、
混ざり、
別れ、
また出会う。
それが、
人類の歴史だったのではないか。
猫だって同じである。
毛の色が違う。
顔つきが違う。
生まれた場所も違う。
だが、
同じ日向で丸くなれば、
それほど大した違いではない。
人間は、
違いを見つけると名前を付ける。
現生人類。
ネアンデルタール人。
デニソワ人。
分類することは、
理解するために必要なのだろう。
だが、
分類した線を、
本人たちまで守っていたとは限らない。
何しろ、
ちゃんと混ざっている。
これには、
人間の学者も少し困ったに違いない。
吾輩は猫である。
人類の系統樹は読めぬ。
だが、
一本の枝だけを見て、
木のすべてを語ってはいけないことくらいは分かる。
デニソワ人とは、
消えてしまった昔の人類ではない。
今の人間が、
思っているほど単純な存在ではなかったことを教えてくれる、
遠い親戚なのだ。
そして人類とは、
誰か一種類が勝ち残った物語ではなく、
出会い、混ざり、受け継ぎながら、
今日まで続いてきた物語なのかもしれぬ。
消えたと思えば
我が身の中に
まだ生きる