吾輩は猫である。
名前はまだない。
人間は、
数字を信じる。
温度。
圧力。
地震の大きさ。
安全率。
数字になれば、
なんとなく安心する。
人間はこれを、
データと呼ぶ。
ところが、
その数字を人間自身が変えてしまうことがある。
都合の悪い数字を外す。
計算方法を変える。
そして、
「安全です。」
と説明する。
人間はこれを、
データ不正と呼ぶ。
吾輩は思う。
それでは、
何のためのデータなのか。
原子力発電所では、
大きな地震が来ても大丈夫なのかを考える。
そのために、
過去の地震を調べ、
地盤を調べ、
どれほど強く揺れる可能性があるのかを計算する。
当然、
小さい数字が出れば、
安全だと言いやすい。
だが、
地震は人間の報告書を読んでくれない。
「この数字にしておきましたので、
少し弱めに揺れてください。」
そうお願いしても、
聞いてはくれぬ。
猫でも分かる。
自然は、
忖度しない。
人間は時々、
「結果として事故は起きなかった。」
と言う。
だが、
吾輩は思う。
それは、
少し違う。
安全とは、
事故が起きなかったという結果だけではない。
正しい数字を見る。
都合が悪くても報告する。
分からなければ、
分からないと言う。
その積み重ねがあって、
初めて安全を語れる。
猫も、
高い棚へ跳ぶ前には距離を見る。
遠い。
届かない。
そう思えば、
無理には跳ばぬ。
そこで、
「たぶん届くことにしておこう。」
と距離を短く見積もれば、
落ちるのは吾輩である。
数字をごまかしても、
現実は変わらない。
変わるのは、
人間の安心だけである。
しかも、
一度不正が見つかれば、
次からは正しい数字まで疑われる。
「今度は本当です。」
と言われても、
「前もそう言ったのではないか。」
となる。
吾輩は思う。
原発で最も壊してはいけないものは、
設備だけではない。
信頼である。
原子炉は、
修理できるかもしれない。
データも、
計算し直せるかもしれない。
だが、
「この会社の数字を信じてよいのか。」
という疑いは、
簡単には直らない。
だからこそ、
安全に関わる仕事ほど、
悪い数字を隠してはいけない。
むしろ、
悪い数字ほど、
早く出す。
危険な可能性ほど、
先に考える。
それが、
本当の安全文化なのではないか。
吾輩は猫である。
原子力工学は分からぬ。
だが、
危ない時に尻尾を立てて、
平気なふりをするほど愚かではない。
原発データ不正とは、
単に数字を書き換えた問題ではない。
安全を証明するための数字を、
安全に見せるための数字へ変えてしまった瞬間、
人間が一番頼らなければならない
「信じられる情報」そのものを、
壊してしまう行為なのだ。
安全とは、
都合のよい数字を並べることではない。
都合の悪い数字からも、
目をそらさないことなのである。
数字より
偽れば先に
信頼溶け