吾輩は猫である ―風姿花伝編―
吾輩は猫である。芸の道は、ただの毛づくろいとは違う。爪とぎにも順序があるように、舞にも、鳴きにも、年齢ごとの深まりがある。 この前、人間が書棚から古い本を取り出した。『風姿花伝』――世阿弥という昔の芸人の書いたものだ。そこには「時分の花」「まことの花」などと書かれていた。吾輩なりに読み解けばこうだ。 子猫の頃は、何をしても愛らしい。それは「時分の花」。小さな肉球でじゃれれば、誰もが笑顔になる。だが、その花は長くは咲かぬ。大人になれば、ただ走るだけでは誰も振り向かない。 そこで必要なのが「まことの花」。年を ...
吾輩は猫である ―猫能 編―
吾輩は猫である。今宵は少し特別な舞台に立つ。場所は町の能楽堂。漆黒の板張り、松の描かれた鏡板、そして張り詰めた静けさ。観客の息づかいすら、音として響く。 今夜の演目は「猫返し」。かつて人間に助けられた猫が、恩返しに現れるという物語。まことに吾輩向きの役である。 囃子方がゆるやかに笛を吹き、小鼓の音が空気を切る。吾輩は面(おもて)をつけぬ代わりに、毛並みをしっとりと整え、一歩、また一歩と橋掛かりを進む。足音は立てぬ。しっぽの先まで、舞の一部である。 観客の視線は静かに集まり、舞台は吾輩と音だけの世界になる。 ...
吾輩は猫である ―猫式領土争い 編―
吾輩は猫である。名はまだない。だが、この路地裏では古参だ。それなりに「縄張り」というものを持っている。 縄張りと言っても、境界線は電柱の影や植木の匂い、屋根の上の陽だまりで決まる。人間のように地図は要らぬ。鼻と耳が、すべてを覚えている。 ある日、その路地に新人が現れた。黒い斑の若造。あろうことか、吾輩の魚屋ルートを我が物顔で歩いている。 吾輩は塀の上からにらみをきかせた。若造は一瞬たじろぐも、しっぽをピンと立てて進む。――宣戦布告である。 だが猫式の戦は、牙をむくだけではない。まずは匂いの上書き合戦。その ...
吾輩は猫である ―ようこそキャッツカールトン編―
吾輩は猫である。名はまだない。だが先日、飼い主の旅行に合わせて「キャッツカールトン横浜」に泊まった。 到着すると、受付で猫専用スタッフが微笑みながら迎えてくれた。まずは専用カードに吾輩の情報を登録。「信虎様、本日から3泊でございます」と呼ばれ、少し誇らしい気分になる。 部屋は一匹ずつの完全個室。広々とした空間に、木目調の爪とぎ、ふかふかのベッド、窓辺のキャットタワー。お水は新鮮なもの、食事は普段食べている銘柄を持ち込んでもらえる。匂いも清潔で、初日からすぐに落ち着けた。 夜になると、スタッフがやさしく声を ...
吾輩は猫である ―小さな命を守る条例に賛成する猫 編 ―
吾輩は猫である。名はまだない。が、自治体の動きには敏感である。 今朝も町内の掲示板を見上げたら、「小さな命を守る条例案、パブリックコメント募集中」とあった。ほう、ついに動いたか――と、吾輩はしっぽで風を測った。 この街には、かつて“野良”が溢れていた。公園の隅で、ゴミ置き場の影で、餌を待ち、警戒し、冬を越えていた仲間たち。人間の誰かが声を上げなければ、その命は“見なかったこと”にされてしまうのだ。 「去勢避妊の支援を」「無責任な遺棄の罰則を」「保護活動への助成を」――そんな条文に、吾輩は全面的に賛成である ...
吾輩は猫である ― ペットカート 編―
吾輩は猫である。名はまだない。だが、乗り物にはちょっとだけうるさい。 最近、飼い主が手に入れたのは「ペットカート」。四輪で、幌付き。まるで王族のように移動できる優れもの――らしい。 初日は疑った。乗せられた瞬間、軽い揺れに耳を伏せ、道路の音に背中の毛が逆立った。 だが二度目には、カート越しに世界を眺める面白さを覚えた。犬が振り返り、人が「可愛い〜」と覗きこむ。知らない花の匂い、ベビーカーの赤ん坊と目が合う瞬間。不思議と、悪くない。 カートの中では、動かずとも旅ができる。吾輩は、まるで港町の灯台のように静か ...
吾輩は猫である ―小さな命 編 ―
吾輩は猫である。名はまだない。だが、小さな命には敏い。 公園の片隅に、小さな段ボールがあった。中には、まだ目も開かぬ仔猫が三匹。鳴き声はかすれていたが、力はあった。「捨てられている」と人間は言った。だが吾輩から見れば、あれは、まだ希望を手放していない命である。 すぐそばでは、小学生が蟻を観察していた。「すごいよ、ちゃんと並んで歩いてる」その声に、吾輩は耳を傾ける。小さきものを見つけ、尊び、語る声は、いつだって未来の兆しだ。 飼い主の祖父は、庭の朝顔に水をやる。「今年はひとつしか咲かなかったけど、それでも嬉 ...
吾輩は猫である ― ロシアの猫友編 ―
吾輩は猫である。名はまだない。けれど、遠いロシアに友がいる。 その猫の名は、ミーシャ。分厚い毛皮をまとったシベリア猫で、飼い主が翻訳家だった縁で、画面越しに吾輩と出会った。 時差をまたぎ、Zoomの背景には雪原とストーブ、こちらは縁側とみかん。ミーシャは流暢な「にゃー」を話すが、吾輩は関西弁交じりで「にゃあやで」と返す。 言葉は通じぬ。でも、猫同士、言葉などいらぬ。ただ、しっぽの動きと目の合図でわかり合う。 ミーシャの飼い主は、時折こんなことを言った。「人間同士は争っても、猫は仲良くできるね」吾輩も頷いた ...
吾輩は猫である ― ようこそ横浜編(Russian,English,Japanese) ―
Добро пожаловать в Йокогаму — «Я кот, современное издание» Я кот. У меня нет имени.Однажды я оказался на скамейке в парке Ямашита. Морской бриз колыхал мою шерсть, а статуя девочки в красных башмачках молча стояла рядом, будто охраняла меня. Так я понял: ...
吾輩は猫である ―猫深夜残業 編―
吾輩は猫である。名はまだない。だが、夜のオフィスに忍び込むのが日課である。 昼間は人間たちであふれていたこの空間も、夜9時を過ぎれば別世界。蛍光灯の明かりは半分、キーボードの音だけがコツコツと響く。 吾輩は、あの部署のあの席へと向かう。そこには、いつも同じ顔のサラリーマン。眼鏡の奥の目は充血し、冷えたコーヒーが三杯並んでいる。 書類の山、赤く染まったエクセル、メールの「件名:至急」それらに囲まれながら、この人間はまるで何かを罰するように働いている。 吾輩は、プリンターの上から見下ろす。「もう、帰っていいの ...