吾輩は猫である ― 猫の嫉妬 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 このところ、飼い主の膝の上を新入りの子猫が占領している。白くて小さく、鳴き声は妙に甘い。吾輩がそこに座ろうとすると、「だめよ、今この子がいるの」と言われた。 胸の奥で、何かがチリチリと燃えた。食事の時間も、つい皿をひっくり返してしまう。飼い主は困った顔をするが、それでも目はあの子猫に向いたままだ。 嫉妬――人間はそう呼ぶらしい。猫にとっては、ただ“好きな相手を取られた”という単純な痛みである。吾輩は夜の窓辺に座り、月明かりに映る自分の影を見つめた。 ふと、飼い主がやってきて ...
吾輩は猫である ― 鬼滅の猫 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 近ごろ飼い主が夢中になっているのが、「鬼滅の刃」なる物語。夜な夜な画面の前で涙をぬぐい、吾輩のごはんを忘れるほどの熱中ぶりである。 どうやら人と鬼が戦う話らしい。家族の絆、仲間の想い、己の誇り――どれも猫には縁遠いようで、しかし不思議と胸が熱くなる。 鬼が夜に現れるのなら、吾輩こそ夜の番人である。暗闇の中でひげを震わせ、影の動きを追うその瞳。もし吾輩が“猫滅隊”を結成すれば、鬼どももたじろぐに違いない。 飼い主は「柱がかっこいい」と叫んでいる。吾輩からすれば、柱とは爪を研ぐ ...
吾輩は猫である ― 車購入 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 飼い主が最近、やたらと数字とにらめっこをしている。「ローン」「燃費」「残価設定」――どうやら新しい車を買うらしい。 試乗の日、吾輩も助手席に乗せられた。エンジン音は静かで、座席はふかふか、外の景色が流れるたびに毛がふわりと揺れた。だが、吾輩にとって重要なのはそこではない。“どの車がいちばん昼寝しやすいか”である。 営業マンは飼い主に、「安全性能が最新です」「燃費も優秀です」と説明していた。吾輩は心の中でつぶやいた。「それより、ひなたの当たる後部座席はあるのか?」 ついに契約 ...
吾輩は猫である ― 故郷に帰る 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 久しぶりに、飼い主の都合で故郷へ帰ることになった。車の窓の外に流れる風景は、かつて子猫のころ駆け回った畦道に似ている。 あの頃は空が広く、田んぼの水面に自分の顔を映して遊んだ。今はその場所も宅地になり、コンビニと駐車場が並んでいる。それでも、風の匂いは昔と同じだった。 古い実家の縁側で昼寝をしていると、向こうから懐かしい声がした。「おかえり」と言うように、近所の猫たちが姿を見せる。皆、顔は違えど、どこか懐かしい温もりをまとっていた。 飼い主は友人と再会し、笑いながら昔話をし ...
吾輩は猫である ― 猫の恋愛 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 路地裏の集会所――魚屋の裏手に、四匹の猫が顔をそろえた。男猫は黒と虎、女猫は三毛と白。皿の上には焼き魚一尾。これが恋と食事の駆け引きの始まりであった。 黒猫はさっそく身を差し出し、「どうぞ先に」と三毛に譲る。虎猫はその隙に、白猫へ鯛の骨を押しやり、「君に似合う」と口説く。 三毛は黒猫の誠実さに目を細め、白猫は虎猫の押しに頬を赤らめる。だが魚は一尾しかない。四匹の視線が交わると、恋も食欲も入り混じった緊張が走る。 結局、身の大きい虎猫が先にかぶりつき、黒猫は静かに尻尾を巻いた ...
吾輩は猫である ― ステマ 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 近ごろ、人間の世界では「ステマ」なる言葉が飛び交っている。どうやら宣伝を宣伝と告げずに広めることを指すらしい。SNSに「これ最高!」と写真を載せれば、本心か商売かはわからぬ。人は疑い、時に炎上する。 猫の世界にも似たことはある。路地裏で一匹が「この魚屋は最高だにゃ」と言えば、仲間はぞろぞろ集まる。だが実は、その猫だけが魚屋に可愛がられて特別にもらっていたら――他の者は裏切られた気分になるだろう。 宣伝とは嘘ではない。けれど隠された意図は、人の心を冷たくする。正直に「これは宣 ...
吾輩は猫である ― 同郷の将棋棋士 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 この町から、将棋の世界で名を上げる若者が出たと聞いた。飼い主は新聞を広げ、テレビを食い入るように見つめている。「同郷の棋士だぞ」と誇らしげに呟く。 将棋盤の上では、木駒がカツンカツンと響く。その音は吾輩の耳に、爪を研ぐ音や、魚の骨をかじる音に似て心地よい。 猫の世界にも陣取り合戦はある。日なたの場所をめぐってにらみ合い、しっぽを高く掲げて一歩ずつ進む。人間の将棋は、その知恵比べを盤上に凝縮したものだろう。 飼い主は棋士の一手一手に一喜一憂する。「勝てば郷土の誉れ」「負けても ...
吾輩は猫である ― 遠い山なみの光 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 飼い主が観ていた映画は「遠い山なみの光」。舞台は戦後の長崎と、のちのイギリス。母が過去を語り、娘が耳を傾ける。だが記憶は曖昧で、どこまでが真実でどこからが嘘なのか、吾輩にはわからぬ。 けれど人間とはそういう生き物なのだろう。痛みを包むために、未来を生き抜くために、記憶を光の角度で塗り替える。猫の記憶が日なたの暖かさに結びつくように、人の記憶もまた、温もりと影の間で揺れている。 スクリーンの光に照らされる飼い主の横顔は、どこか遠い山なみの向こうを見ているようであった。吾輩はた ...
吾輩は猫である ― 猫の靴 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 ある日、飼い主が小さな箱を持ち帰った。中から出てきたのは――吾輩用の「猫の靴」なるもの。肉球を守るためだと説明されたが、吾輩にしてみれば唐突な試練であった。 片足を通されただけで、地面の感触が消え、ひげの先までむず痒い。四足すべてを履かされたときには、歩くたびにカタカタ音がして、吾輩はまるで不器用な人形のようであった。 飼い主は「かわいい!」と声を上げ、写真を撮りたくて仕方がないらしい。だが吾輩は心の中で嘆く。「猫の誇りは爪と肉球にあり。靴など要らぬ!」 もっとも、灼けたア ...
吾輩は猫である ― ゴールドバッハ予想 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 飼い主が机に向かって数字とにらめっこをしている。黒板には「偶数はすべて二つの素数の和で表せる」と書かれている。これが「ゴールドバッハ予想」なるものらしい。 吾輩は数字より煮干しに興味があるが、飼い主の真剣な顔を見ているうちに考え込んでしまった。偶数とは、吾輩に言わせれば魚二匹。それを二つの素数――例えばアジとサバに分ければ、確かに晩ご飯は成立する。 しかし問題は、どんな偶数でも必ず二匹に分けられるかどうか。もし魚が三匹しか手に入らなかったら?いや、足りぬ時は昼寝でごまかすの ...