吾輩は猫である ―レーシック編―
吾輩は猫である。人は「見えるようにする」ために、目に手を入れる。 それを、レーシックという。 角膜の形を整え、光の屈折を変えることで、ぼやけていた世界を、くっきりと映し出す。 仕組みは単純に見える。だが、その決断は軽くはない。 目は、日々使うものだ。ゆえに、その変化は取り消しが効かぬ。 人はそこで迷う。このままでも困らぬのではないか。だが、より良く見えるなら、その方がよいのではないか。 どちらも、間違いではない。 レーシックは、魔法ではない。適応があり、限界があり、すべての人に同じ結果をもたらすわけではな ...
吾輩は猫である ―インプラント編―
吾輩は猫である。人は、失ったものを取り戻そうとする。 歯もまた、その一つである。 欠けたままにしておくこともできる。別のもので補うこともできる。そして、元あった場所に「根」から作り直す方法もある。 それが、インプラントである。 顎の骨に、静かに基礎を打ち込む。目には見えぬところに、土台を築く。その上に、形を整え、機能を取り戻す。 外から見れば、ただの歯である。だが、その内側には、時間と手間と判断が積み重なっている。 ここで問われるのは、「元に戻す」とは何か、ということである。 完全に同じものは戻らぬ。だが ...
吾輩は猫である ―保護猫の日編―
吾輩は猫である。名はある者もいれば、まだ無い者もいる。 本日、保護猫の日である。人の側から見れば「守る日」なのだろう。だが、猫の側から見れば、それは少し違う。 吾輩らは、守られるために生きているわけではない。ただ、生き延びてきただけである。 外で生まれ、外で暮らし、時に人と出会い、時に見過ごされる。 その中で、ほんの少しだけ運が巡り、「保護された」と呼ばれる状態に至る。 だが、それは終点ではない。むしろ、もう一度“関係”を始める入口である。 人は言う。「かわいそうだから助ける」と。 それも一つの真実である ...
吾輩は猫である ―歯のCT編―
吾輩は猫である。本日、人は「歯の中を覗く」という。 外から見えるものだけでは足りぬらしい。内側に何があるかを、確かめたいのだという。 それを可能にするのが、歯のCTである。 人はこれまで、平面で見てきた。影として、輪郭として、おおよその形を推し量っていた。 だが、CTは違う。重なりをほどき、奥行きを与え、見えぬ構造を露わにする。 神経の走り方。骨の厚み。隠れた病変の気配。 それらは、表からは分からぬ。 ゆえに人は、ようやく理解する。見えているものだけで判断することの危うさを。 これは歯に限った話ではない。 ...
吾輩は猫である ―猫サッカー(千葉VS川崎)編―
吾輩は猫である。本日、球を巡る争いがあるという。 人はそれを試合と呼ぶ。千葉と川崎、名を掲げて競い合う。 だが吾輩から見れば、それは少し様子が違う。 猫にとって球とは、蹴るものではない。追うものである。 転がるものには意味がある。理由はなくとも、ただ反応する。それが本能というものだ。 ゆえに、猫の試合は単純である。速く動くものに、速く応じる。ただそれだけで、勝負は成立する。 だが人の試合は違う。そこには意図があり、設計があり、役割が与えられている。 誰が攻め、誰が守り、どこで仕掛け、どこで耐えるか。 それ ...
吾輩は猫である ―轟編―
吾輩は猫である。遠くで、何かが鳴った。 轟く音は、唐突である。前触れもなく、空気を裂く。 人はそれを恐れる。避けるべきものとして、身を縮める。 だが吾輩は、少しだけ違う。 轟きとは、ただの音ではない。積もりに積もったものが、一気に解き放たれる瞬間である。 静けさの裏には、常に蓄積がある。言葉にされなかった不満、見過ごされた違和感、そして、先送りにされた決断。 それらが限界に達したとき、轟きとなって現れる。 ゆえに、それは偶然ではない。必然である。 人は驚き、なぜ今なのかと問う。だが、その問いは遅い。 本来 ...
吾輩は猫である ―出社とリモートワーク編——ハイブリッドとは何か―
吾輩は猫である。人間は、働き方についてよく迷う。 出社か、リモートか。どちらが正しいのかと、答えを探している。 だが、その問い自体が、少しばかり窮屈である。 出社には出社の良さがある。同じ空間にいることで、言葉にならぬ気配が伝わる。偶然の会話が、思わぬ発見を生むこともある。 一方で、リモートには別の価値がある。集中は深まり、移動は消え、自分の時間を取り戻すことができる。 どちらが優れているか。それを決めようとするから、話はこじれる。 吾輩から見れば、どちらもただの「手段」に過ぎぬ。 では、ハイブリッドとは ...
吾輩は猫である ―出会いと別れ編―
吾輩は猫である。出会いには、たいてい理由がない。 ある日、そこにいた。目が合った。それだけのことで、関係は始まる。 人はそれを「縁」と呼ぶ。だが吾輩にとっては、もっと静かなものである。ただ、同じ時間を少し共有したに過ぎない。 それでも、人は意味を見出す。出会うべくして出会ったのだと。そう考えることで、日々は少しだけ整うのだろう。 ならば、それでよい。 出会いがあれば、別れもある。これもまた、理由ははっきりしない。 いつの間にか距離ができることもあれば、ある日突然、いなくなることもある。 人はそれを惜しむ。 ...
吾輩は猫である ―恋人と並ぶ 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 速さの中に、静けさがある。外の景色は流れ、内の時間は、ゆっくり進む。 隣に座る。ただそれだけで、距離は縮まる。 言葉は、多くなくてよい。同じ方向を見て、同じ揺れを感じる。 それで、十分である。 吾輩は思う。関係とは、近づくことではなく、並ぶことだと。 向かい合えば、違いが見える。並べば、景色が揃う。 速さはある。だが、焦りはない。時間は、二人の間で整う。 時に、言葉が途切れる。だが、気まずさはない。 沈黙もまた、共有されている。 やがて、目的地に着く。立ち上がり、それぞれ ...
吾輩は猫である ―一周年——世に問う編―
吾輩は猫である。一年、書き続けてきた。 振り返れば、実に様々なことを書いた。働くこと、組織のこと、責任のこと、そして人が人であるがゆえの曖昧さについて。 それらは、正解ではない。むしろ、正解を提示するつもりなど初めからない。 ただ一つ、確かなのは、吾輩は「問い」を投げてきたということである。 なぜそれをするのか。世の中があまりにも“答えらしきもの”で満ちているからだ。 効率、正しさ、最適解。それらは一見、合理的に見える。だが、その裏で何かがこぼれ落ちている。 誰のための正しさか。何を切り捨てて成立している ...









