吾輩は猫である ―瀬戸内レモン 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 机の上に、鮮やかな黄色が置かれた。丸く、光を含み、どこか涼しげだ。 人間はこれを、瀬戸内レモンと呼ぶ。 香りは爽やかで、空気を軽くする。だが、一口かじれば、顔が少し変わる。 酸い。 人間は、それを好む。甘さだけでは、物足りぬらしい。 吾輩は思う。酸味とは、拒まれるためのものではないと。 味を締め、輪郭を与え、全体を整える。甘さだけでは、ぼやける。 人生も、似ている。楽なだけでは、記憶に残らぬ。少しの苦味、少しの酸味が、深さになる。 瀬戸内の風は、穏やかだという。強すぎぬ日 ...
吾輩は猫である ―バームクーヘン 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 机の上に、丸いものが置かれた。切られると、中に幾重もの層が現れる。 人間はこれを、バームクーヘンと呼ぶ。 年輪のようだと、人間は言う。時間が、甘く重なっているらしい。 一層一層は、薄い。それだけでは、特別なものではない。 だが、重なれば、形になる。 吾輩は思う。日々も同じだと。 一日では、変わらぬ。一回では、差は出ぬ。だが、積み重ねれば、やがて輪になる。 人間は、急ぎたがる。厚く、早く、一気に形を作ろうとする。 だが、焼きすぎれば焦げ、急げば崩れる。 適度な火、適度な時間 ...
吾輩は猫である ―4月1日 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 朝の空気が、少しだけ軽い。同じ道、同じ部屋、だが、人間の歩き方が違う。 人間はこれを、四月一日と呼ぶ。 始まりの日らしい。 新しい名札、新しい席、新しい挨拶。言葉の端に、少しの緊張が混じる。 昨日の続きでありながら、どこか別の一日。 吾輩は思う。始まりとは、完全な新しさではないと。 積み重ねの上に、一枚だけ新しい紙を重ねること。それが、始まりの正体だ。 人間は、変わろうとする。昨日よりも、少し良く、少し前へ。 だが、すべてを変える必要はない。変えぬものがあるから、変わるこ ...
吾輩は猫である ―3月31日 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 今日で、一つが終わる。暦の上では、ただの一日だが、人間にとっては区切りらしい。 三月三十一日。 机の上には、片付けきれぬ紙と、締めきった仕事。終わったものと、終わらなかったものが、同じ場所にある。 人間は、振り返る。やり切ったか、足りなかったか。答えは、どちらでもないことが多い。 吾輩は思う。区切りとは、整理のための印だと。 すべてを終わらせる日ではない。ただ、ここまで来たと認める日である。 窓の外には、少しだけ春の気配。終わりの隣に、始まりが置かれている。 人は、明日か ...
吾輩は猫である ―船を眺める 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 海は、穏やかに見える日ほど、油断を誘う。波は低く、風も弱い。 だが、その静けさの中に、危うさは潜む。 船は、急に大きく崩れるのではない。少しの傾き、少しの偏り、それが積み重なる。 荷の置き方、人の移動、重心のズレ。それらが重なり、ある一点を越える。 そこから先は、速い。 だからこそ、事前に防ぐ。 荷は均等に。急な移動は避ける。波の方向を読む。ライフジャケットを着る。違和感を感じたら、すぐに戻す。 吾輩は思う。安全とは、特別な行動ではないと。 当たり前を、確実に続けること。 ...
吾輩は猫である ―石油と猫 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 冬になると、部屋の中心に一つの熱が置かれる。目には見えぬが、確かに暖かい。 人間はそれを、石油と呼ぶ。 地の底から来たものが、火を得て、空気を変える。冷えた指先が緩み、言葉も少し柔らかくなる。 猫は、暖かさを知っている。最も効率のよい場所を、自然に選ぶ。 近すぎれば熱い。遠すぎれば届かぬ。その間に、ちょうどよい一点がある。 人間の世界も、似ている。便利なものは、扱いを誤れば危うい。 石油は、力である。動かし、温め、支える。だが、制御を失えば、一瞬で変わる。 だから人は、距 ...
吾輩は猫である ―油と猫 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 台所に、独特の匂いが立つ。静かだった空気が、急に動き出す。 人間は、鍋に油を引く。 熱されると、油は変わる。透明から、きらめきへ。やがて、音を伴う。 吾輩は、少し距離を取る。油は、近づきすぎてはならぬものだ。 跳ねる。予測なく、一瞬で。 世の中にも、似たものがある。便利で、役に立ち、だが扱いを誤れば、傷になる。 人間は、火加減を見て、油の状態を読む。早すぎず、遅すぎず。 適切とは、経験でしか測れぬ。 香りは良い。食欲を誘い、場を温める。だが、猫は知っている。 良い匂いほど ...
吾輩は猫である ―猫ドライブ 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 今日は、いつもと違う場所にいる。床が揺れ、景色が流れ、匂いが次々と変わる。 人間はこれを、ドライブと呼ぶ。 猫にとって、移動は目的ではない。場所が変わること自体が、一つの出来事だ。 最初は落ち着かぬ。音も、振動も、予測がつかない。だが、しばらくすると、リズムが見えてくる。 一定の速さ、一定の揺れ。それがわかれば、少し安心する。 窓の外には、知らぬ景色。通り過ぎるだけで、手は届かぬ。それでも、見ていると飽きぬ。 人間は、目的地を決める。時間を読み、道を選ぶ。 猫は、今を見る ...
吾輩は猫である ―ドライブレコーダ 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 車の前に、小さな目が付いた。黒く、黙って、ただ前を見ている。 人間はこれを、ドライブレコーダと呼ぶ。 走るたびに、すべてを記録する。良いことも、そうでないことも、等しく残す。 忘れぬための装置だ。 人は、記憶に頼る。だが記憶は、都合よく変わる。少し丸くなり、少し角が取れる。 機械は違う。そのままを残す。解釈も、感情も、持たぬ。 吾輩は思う。記録とは、正しさのためだけではない。振り返るためにあるのだと。 急いだ瞬間、迷った交差点、ためらった一秒。それらは、後から意味を持つ。 ...
吾輩は猫である ―猫BBQ 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 外が、やけに良い匂いだ。煙が上がり、人間の動きが少し陽気になる。 人間はこれを、BBQと呼ぶ。 肉が焼け、音が弾け、会話が増える。火の前では、人は少し素直になるらしい。 吾輩は、少し距離を取って座る。近づけば熱い。遠すぎれば届かぬ。このあたりが、ちょうどよい。 肉は魅力的だ。だが、焦げた匂いと塩の気配が強い。猫は、素材を好む。 人間は、焼きすぎる。だがそれも、楽しみの一つなのだろう。 役割が分かれる。焼く者、食べる者、片付ける者。火を囲むと、自然に配置が決まる。 吾輩は、 ...









