吾輩は猫である ―技術士口頭試験 不合格 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 春の終わりに、一つの結果が届く。紙の上には、短い評価。 人間はこれを、技術士口頭試験の結果と呼ぶ。 合格という二文字は、遠くない場所にある。番号も、ほんの少し違うだけだ。 隣の列には、同じ数字が並ぶ。0000E0000。その人は、合格した。 吾輩は思う。たった一文字が、重い。 EとM。それだけの違いで、春の色が少し変わる。 机の上には、筆記試験の記憶。書いた時間、積み重ねた経験、考えた答え。 それらは、消えない。 だが、評価には丸と印が並ぶ。コミュニケーション。リーダーシ ...
吾輩は猫である ―技術士二次試験 合格発表 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 春先になると、人間は少し落ち着かなくなる。机の上の参考書は閉じられ、画面の前に、静かな緊張が残る。 人間はこれを、合格発表と呼ぶ。 長い時間をかけて、書き、考え、直し、また書く。紙の上に、経験を並べる試みである。 試験とは、知識を問うようでいて、実は姿勢を問う。どこまで考え、どこまで責任を引き受けるか。 結果の文字は、短い。だが、そこに至る道は長い。 喜ぶ者もいれば、静かに画面を閉じる者もいる。どちらも、同じ時間を歩いてきた。 合格とは、終わりではない。むしろ、背負う名が ...
吾輩は猫である ―猫社会の契約 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 猫の世界には、契約書がない。署名も、印鑑も、長い条文もない。 それでも、約束はある。 縄張りは、足音で伝わる。距離は、視線で決まる。近づく者も、退く者も、言葉を使わぬ。 人間は、契約を紙に書く。猫は、空気に書く。 角を曲がる時、誰が先に進むか。屋根の上で、どこまで近づくか。互いの尾が、その境界を知っている。 破れば、すぐわかる。声が荒れ、毛が立ち、関係は崩れる。 守れば、平穏が続く。争いは減り、昼寝の時間が増える。 契約とは、拘束ではない。互いの自由を壊さぬための静かな線 ...
吾輩は猫である ―ホワイトデー 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 三月になると、人間は少し考え込む。机の上には、白い箱。リボンは整い、中身は甘い。 人間はこれを、ホワイトデーと呼ぶ。 返す日らしい。 もらったものに、応える。それは、礼でもあり、照れ隠しでもある。 猫には、返礼の習慣はない。撫でられれば、目を細める。それだけで十分だ。 だが人間は、形を整える。菓子に気持ちを包み、箱に距離を収める。 大きすぎても、小さすぎても、意味が変わる。人間の世界は、なかなか繊細だ。 渡すとき、言葉は短い。受け取るとき、笑顔は少しぎこちない。それでいい ...
吾輩は猫である ―猫侍ジャパン 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 春になると、人間は急に「侍」を名乗り始める。刀ではなく、バットを握り、国の名を背負って球を追う。 人間はこれを、侍ジャパンと呼ぶ。 なるほど。侍とは、強く振るう者ではない。最後まで立つ者である。 もし猫が侍ジャパンに入るなら、守備は任せてほしい。打球への反応、低い重心、跳躍力。内野守備など、猫の得意分野だ。 ただし、問題が一つある。 ボールが止まると、つい触る。転がると、つい追う。審判の目の前でも、本能は止まらぬ。 それでも、侍という言葉には、少し敬意がある。勝つために戦 ...
吾輩は猫である ―WBC 編(WORLD BASEBALL CATS)―
吾輩は猫である。名前はまだない。 春になると、人間は急に野球を語り始める。旗が増え、声が大きくなり、一球ごとに世界が揺れる。 人間はこれを、WBC——WORLD BASEBALL CATS……ではなく、WORLD BASEBALL CLASSICと呼ぶ。 だが、猫が出るなら話は別だ。 守備は強い。打球への反応は速く、ジャンプ力も申し分ない。内野守備など、猫に任せれば完璧だろう。 問題は、ルールである。 ボールを見ると、追う。止まると、触る。転がると、さらに追う。 戦術というより、本能だ。 人間は、勝敗を語 ...
吾輩は猫である ―猫の毛と本革シート 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 新しい車の中は、少し誇らしい匂いがする。本革の座面は滑らかで、光を柔らかく返す。 人間は、そっと撫で、満足げにうなずく。 そこへ、吾輩が乗る。 ふわり。 毛は、遠慮を知らぬ。黒にも、白にも、茶にも、平等に残る。 人間は慌てる。粘着ローラーを持ち出し、ブラシを探し、ため息をつく。 だが、毛は悪意ではない。それは、吾輩がここに居た証である。 本革は、時とともに艶を増す。傷も、皺も、馴染んでいく。ならば、毛もまた、一時の記憶にすぎぬ。 完璧な状態を、保とうとするほど、気持ちは窮 ...
吾輩は猫である ―猫桃太郎編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 川上から、大きな桃が流れてきた。人間は驚き、切ろうとする。 待て。それは、中から出る話だ。 人間の物語では、桃から桃太郎が出るらしい。鬼を退治し、宝を持ち帰る。 だが、もし桃から出たのが、吾輩だったらどうする。 きびだんごを配るだろうか。犬と猿と雉を従えるだろうか。鬼ヶ島へ向かうだろうか。 否。 猫は、徒党を組まぬ。必要なら協力するが、無理に仲間を増やさぬ。 鬼とは、外にいるとは限らぬ。欲、慢心、過信。それらは、内側にも住む。 退治すべきは、遠い島より、近い油断である。 ...
吾輩は猫である ―重圧 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 空気が、少し重い。誰も触れていないのに、部屋の中央に、見えぬ何かが置かれている。 人間はそれを、重圧と呼ぶ。 期待という名で届き、責任という形で積まれ、沈黙のまま膨らむ。音はないが、確かに重い。 吾輩は、机の上に乗ってみる。書類は重いが、それは紙の重さではない。決めねばならぬ未来が、重いのだ。 人は、強くなろうとする。だが、重圧は力では動かぬ。抱えれば抱えるほど、足元が揺らぐ。 猫は知っている。重いものは、真下から受け止める。横から押せば、倒れる。 深く座り、呼吸を整え、 ...
吾輩は猫である ―猫的経済安保 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 人間は最近、「経済安全保障」という長い言葉を使う。 供給網、重要物資、技術流出、半導体。難しそうに聞こえるが、要は、止まらぬようにする話である。 吾輩の世界にも、似たものがある。餌の場所、暖の確保、逃げ道の確保。途切れれば、困る。 猫は、一つの皿に頼らぬ。一つの道に絞らぬ。危ういと知れば、別の選択肢を持つ。 備えとは、怯えることではない。余裕を持つことだ。 高い場所に上がり、周囲を見渡す。危険はないか、不足はないか。見張ることは、攻めることではない。 人間は、効率を求め、 ...









