吾輩は猫である ―鍵交換 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 玄関で、見慣れぬ音がする。 金属が外され、新しいものが取り付けられる。 人間はこれを、鍵交換と呼ぶ。 古い鍵でも、昨日までは開いた。 壊れていない。 使えなくもない。 それでも、交換することがある。 吾輩は思う。 安全とは、壊れてから考えるものではないと。 誰かが鍵を持っているかもしれない。 長く使って、仕組みが古くなっているかもしれない。 何も起きていない時ほど、人間は後回しにする。 だが、何か起きてからでは遅いこともある。 猫も同じである。 開いた窓。 少し緩んだ網戸 ...
吾輩は猫である ―黒歴史 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 人間には、思い出したくない過去があるらしい。 昔の写真。 昔の文章。 昔の発言。 昔の服装。 できることなら、全部まとめて箱に入れ、押し入れの奥へしまいたい。 人間はこれを、黒歴史と呼ぶ。 吾輩は思う。 ずいぶん大げさである。 その時は、それなりに真剣だったのではないか。 本人は格好いいと思っていた。 正しいと思っていた。 良かれと思っていた。 ただ、今の自分から見ると、少々つらい。 それだけである。 猫にも、似たような過去はある。 飛べると思って、少し高すぎる棚へ挑んだ ...
吾輩は猫である ―誕生日イベント 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 人間には、他人の誕生日を、自分のことのように楽しみにする習性がある。 しかも、わざわざチケットを申し込み、当選を祈り、その日まで指折り数える。 人間はこれを、誕生日イベントと呼ぶ。 吾輩は思う。 誕生日とは、本人が一つ歳を重ねる日ではなかったか。 なぜ、周りの人間までこんなに嬉しそうなのだろう。 会場へ行く。 席を探す。 開演を待つ。 そして、本人が姿を見せた瞬間、大きな拍手が起こる。 「おめでとう。」 たった一言のために、これほど多くの人間が集まる。 なかなか悪くない。 ...
吾輩は猫である ―日焼け防止 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 夏の陽射しは、容赦がない。 朝だから大丈夫。 少しだけだから平気。 そう思っているうちに、人間の肌は赤くなる。 人間はこれを、日焼けと呼ぶ。 吾輩は思う。 太陽とは、暖かいだけではないと。 光をくれる。 体を温める。 だが、浴びすぎれば、負担にもなる。 人間は、日焼け止めを塗る。 帽子をかぶる。 日傘を差す。 長袖を着る。 なるほど。 ずいぶん装備が多い。 猫なら、もっと簡単である。 暑ければ、日陰へ行く。 眩しければ、カーテンの向こうへ移る。 無理に陽射しと戦わない。 ...
吾輩は猫である ―倍返し 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 人間は、やられたことを、よく覚えている。 一度されたことを、二度返したくなる。 人間はこれを、倍返しと呼ぶ。 なるほど。 気持ちは、少し分かる。 猫も、嫌なことをされれば、しばらく距離を取る。 撫で方が雑なら、次は近づかぬ。 しつこく追われれば、一段高い場所へ逃げる。 だが、倍にはしない。 一度引っかかれたから、二度引っかく。 一回怒鳴られたから、二倍怒鳴り返す。 それでは、いつまでたっても終わらぬ。 吾輩は思う。 仕返しとは、気持ちを晴らすようでいて、次の仕返しを生むこ ...
吾輩は猫である ―夏休み終わり 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 八月の終わりが近づくと、人間の顔が少し曇る。 子供は、宿題を思い出す。 大人は、仕事を思い出す。 人間はこれを、夏休みの終わりと呼ぶ。 始まる前は、あれほど長く見えた。 旅行へ行こう。 海へ行こう。 花火を見よう。 何もしない日も作ろう。 予定は、いくらでもあった。 だが、休みというものは、始まった瞬間から減っていく。 吾輩は思う。 人間は、終わりが近づいてから、急に時間を惜しむ生き物である。 まだ一週間ある。 まだ三日ある。 そして、 「もう明日しかない。」 そこで、や ...
吾輩は猫である ―XとY 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 人間の体には、ずいぶん小さなところに、大きな違いを生む仕組みがあるらしい。 X。 そして、Y。 人間はこれを、性染色体と呼ぶ。 たった一文字違うだけで、男になったり、女になったりする。 もちろん、現実はそれほど単純でもない。 遺伝子。 ホルモン。 成長。 そして、一人一人の違い。 生き物とは、教科書ほどきれいには分かれぬものらしい。 吾輩は思う。 人間は、何かにつけて二つに分けたがる。 男か女か。 強いか弱いか。 理系か文系か。 犬派か猫派か。 最後だけは、答えが明らかな ...
吾輩は猫である ―裏切りと化かし合い 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 人間は、時々笑いながら近づく。 味方のように見える。 親しげに話す。 だが、心の中では別のことを考えている。 人間はこれを、裏切りとか、化かし合いとか呼ぶ。 吾輩は思う。 実に器用な生き物である。 猫なら、嫌なら離れる。 警戒すれば、耳が動く。 怒れば、尻尾に出る。 隠しているつもりでも、だいたい漏れている。 人間は違う。 笑顔のまま、距離を詰める。 褒めながら、値踏みする。 握手しながら、次の一手を考える。 なかなか高度である。 だが、吾輩は思う。 化かし合いとは、賢さ ...
吾輩は猫である ―猫甲子園編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 夏になると、人間は白い球を追いかける。 土の上を走り、汗を流し、一球に声を張る。 人間はこれを、甲子園と呼ぶ。 勝てば、次がある。 負ければ、その夏は終わる。 実に、分かりやすい。 吾輩は思う。 だからこそ、人間はあれほど夢中になるのだろうと。 いつまでも続くものなら、一球の重さは薄くなる。 だが、終わりがあると分かっているから、全力で走る。 猫なら、暑い昼間に走り回ることなど、まずしない。 日陰へ行く。 水を飲む。 涼しくなるまで、じっと待つ。 甲子園球児には、到底向い ...
吾輩は猫である ―文学賞への挑戦 編―
吾輩は猫である。名前はまだない。 人間は、時々ずいぶん不思議なことをする。 何万字も書く。 何度も直す。 削っては戻し、戻してはまた削る。 ようやく完成すると、今度はそれを知らない人に送りつけ、評価してもらおうとする。 人間はこれを、文学賞への挑戦と呼ぶ。 なかなか勇気のいる遊びである。 書いている間は、自分だけの世界だ。 登場人物を歩かせ、泣かせ、笑わせ、時には死なせる。 作者は、ほとんど神である。 ところが応募した瞬間、急に弱くなる。 一次選考。 二次選考。 最終候補。 発表日。 それまで神だった人間 ...









