吾輩は猫である。
名前はまだない。
アメリカでは、
大統領を選んでから二年ほどすると、
また大きな選挙がやってくる。
人間はこれを、
中間選挙と呼ぶ。
中間。
なんとも、
地味な名前である。
期末でもなく、
最終でもない。
だが、
人間たちは妙に真剣である。
勝った。
負けた。
政権への審判だ。
いや、
まだ支持されている。
テレビでは、
朝から晩までそんな話をしている。
吾輩は思う。
中間なら、
もう少し気楽にしてはどうかと。
だが、
どうやらそうもいかぬ。
大統領が何かをしたくても、
議会の勢力が変われば、
思うように進まなくなることがある。
つまり人間は、
四年間ずっと同じ者に任せきりにはしないのである。
途中で一度、
「ちゃんとやっているか」と
確かめる。
なるほど。
これは、
悪くない仕組みである。
猫の家にも、
中間選挙があればよい。
公約は、
「おやつ増量」
「冬季暖房の完全保障」
「一日三回以上の撫で撫で」
あたりだろう。
実現しなければ、
二年後に審判を下す。
いや、
猫の場合は二年も待たぬ。
飯が遅れただけで、
支持率は急落する。
人間の政治も、
少し似ている。
選挙の時には、
未来を語る。
だが、
中間選挙では、
ここまで何をしたのかも問われる。
言ったことより、
やったこと。
期待より、
実績。
そこを見る。
吾輩は思う。
民主主義とは、
一度選んで終わりではないのだと。
選ぶ。
見る。
評価する。
そして、
また選ぶ。
なかなか手間がかかる。
だが、
権力というものは、
見られなくなると、
だんだん居心地が良くなるらしい。
猫も、
誰も見ていなければ、
テーブルの上に乗る。
少し似ている。
だから、
時々見ているぞと伝える。
それが、
大切なのであろう。
ただし、
選挙になると、
人間はすぐ二つに分かれる。
こちらが正しい。
あちらは間違っている。
勝った方が民意。
負けた方は黙れ。
だが、
国には選挙の翌日も、
両方の人間が暮らしている。
勝った者だけで、
国はできていない。
そこを忘れると、
選挙は社会を選ぶ仕組みではなく、
社会を二つに割る行事になってしまう。
吾輩は猫である。
投票権はない。
だが、
人間をよく観察している。
中間選挙とは、
誰が一番偉いかを決める大会ではない。
任せた権力に、
途中でもう一度、
人間が首輪を付け直す日なのだ。
もっとも、
猫に首輪を付ける時は、
かなり慎重にお願いしたい。
選んでも
見ていなければ
猫も乗る