吾輩は猫である ― 猫と雷鳥 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 立山の稜線を、白い霧が流れていく。その中で、ふと雪のように淡い羽音が聞こえた。見上げると、そこに一羽の鳥がいた。羽は灰と白のまだら、目は小さく、まるで雲の一部が命を得たような姿――雷鳥である。 吾輩は声をかけた。「こんな高いところで、寒くはないのか?」雷鳥は小さく首を傾げ、「寒いけれど、ここが私の家です」と言った。その声は風の音にまぎれて、まるで山自身が語っているようだった。 吾輩はしばらく黙って隣に座った。人も猫も鳥も、この山では皆、同じ空気を吸い、同じ雲を見上げて生きて ...
吾輩は猫である ― 猫のワールドシリーズ 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 夜更け、飼い主がテレビの前で吠えていた。「ホームランだ!」「ストライク!」どうやら“ワールドシリーズ”という戦が行われているらしい。 画面の向こうでは、白球が風を裂き、歓声が空を揺らす。選手たちの目は真剣そのもの。だが吾輩の目には、あれは巨大な“ネズミ追い”のようにも見える。 飼い主は興奮のあまり、吾輩の背中をなでながら叫ぶ。「大谷、やったー!」吾輩は目を細める。――あの俊敏さ、きっと猫族の末裔に違いない。 試合は延長戦に入り、人々の手に汗がにじむころ、吾輩はあくびをひとつ ...
吾輩は猫である ― 猫と立山 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 この地は立山。空に手が届くほどの峰々が、静かに白い息を吐いている。山の風は冷たく、けれどどこか懐かしい匂いがする。 吾輩は、山小屋の縁側で暮らしている。登山客が通るたびに、「猫がいるぞ!」と声を上げる。だが吾輩にとっては、この山こそがふるさとであり、寝床であり、世界のすべてである。 朝は雲海の上に陽が昇る。鳥が鳴き、雪解けの水が音を立てて流れる。夜は星が近く、風が遠い昔の声を運んでくる。この山には、神が宿るという。なるほど、そうかもしれぬ。人も猫も、その神のまなざしの中でほ ...
吾輩は猫である ― 猫の日常 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 朝、陽が障子を透かして部屋に差し込む。飼い主の目覚ましが鳴るより早く、吾輩は窓辺で背伸びをする。世界は今日も、ゆっくりと動き始める。 朝食はいつものカリカリ。味も形も変わらない。だが、いつも通りにあるということは、案外すばらしいことなのだ。 午前は日なたで寝る。午後は陰で寝る。夕方は、飼い主の足元で寝る。人間はそれを「ぐうたら」と呼ぶが、吾輩にとっては「生きる訓練」である。――変化に動じず、風に身をゆだねる術なのだ。 夜になると、飼い主が帰ってくる。手を洗い、服をかけ、「今 ...
吾輩は猫である ― 猫のお土産 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 飼い主が旅行から帰ってきた。玄関のドアが開くなり、スーツケースの中から「ほら、買ってきたよ!」と笑顔で差し出したのは――魚の形をしたキーホルダー。 ……吾輩はしばし沈黙した。 期待していたのは、せめてカツオ節か、サーモン味のパウチである。だが飼い主の満足げな顔を見たら、文句のひとつも言えぬ。「気持ちが大事」とは、こういうことなのだろう。 袋の中から、さらに出てきた。「猫用まくら」「旅先限定キャットミルク」「温泉の匂い付きタオル」。……要するに、人間が楽しそうに選んだ物たちで ...
吾輩は猫である ― 女性総理 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 朝のニュースで、アナウンサーが少し緊張した声で告げた。「本日、日本で初めての女性総理大臣が誕生しました」 飼い主はコーヒーを落としかけ、「ついにこの日が来たか」と呟いた。吾輩は窓辺からテレビをのぞき込み、スーツ姿の女性が深々と頭を下げる姿を見た。 世の中が変わる時というのは、派手な音もなく、静かに訪れるものらしい。その目は凛として、しかしどこかに慈しみの光を宿していた。 かつて、政治の世界は男の声であふれていた。議論は強く、理屈は鋭く、けれど、どこか冷たかった。この新しい時 ...
吾輩は猫である ― 議員削減 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 夕方のニュースで、飼い主がテレビに向かってつぶやいた。「議員の数を減らすらしいよ」吾輩は耳をぴくりと動かした。――議員とは、人間の群れのリーダーのことか? スタジオでは専門家が言う。「無駄をなくし、効率的な政治を」しかし、別の人は反論する。「数を減らせば、多様な声が届かなくなる」人間というのは、何かを減らしても増やしても、必ず揉める生き物らしい。 猫の社会では、単純である。多すぎれば喧嘩が増え、少なすぎれば見張りが足りぬ。だから、縄張りの大きさに合わせて自然に調整される。こ ...
吾輩は猫である ― 猫の誕生日 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 朝、カリカリの皿の隣に見慣れぬ包みが置かれていた。中には新しい首輪。赤いリボンがついている。飼い主がにっこり笑って言った。「今日はお誕生日だよ」 誕生日――人間のようにケーキもろうそくもないが、この家では、吾輩がここに来た日をそう呼んでくれる。 思えば、段ボールの中で鳴いていた小さな吾輩を、飼い主が拾ってくれたのは数年前の春。初めて撫でられた日の温かさを、今でも覚えている。 年月はあっという間に過ぎた。爪は丸くなり、毛並みは少し柔らかくなった。それでも、飼い主の足音を聞くだ ...
吾輩は猫である ― 動物愛護とは 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 近ごろ、人間たちは「動物愛護」という言葉をよく使う。ポスターが貼られ、募金箱が並び、「殺処分ゼロ」「共生社会」などの声が街にあふれている。 けれど吾輩は考える。愛護とは、守られることか?それとも、同じ目線で生きることか? 吾輩の仲間の中には、首輪をして、やさしく撫でられて眠る者もいれば、冷たい路地で雨を避けながら夜を過ごす者もいる。どちらが幸せかは、きっと誰にも決められぬ。 人間は「かわいそう」と言って拾い上げるが、本当の優しさとは、相手を思いどおりにすることではなく、生き ...
吾輩は猫である ― クマに遭遇した猫 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 秋の山は、金色に染まっていた。木の実を拾いに、少し奥まで入りすぎたのだ。風がひゅうと抜け、葉がカサリと揺れたその瞬間――大きな影が木立の向こうに立っていた。 クマである。 吾輩の背の何倍もある体、黒光りする毛並み、息づかいが地面を震わせる。時間が止まったようだった。 逃げるか、動かぬか。猫の本能が叫んでいた。しかしクマの目は、意外にも穏やかだった。その瞳には、飢えでも怒りでもなく、ただ静かな生の光が宿っていた。 しばし、二つの影が山の斜面で向かい合った。吾輩は小さく息を吐き ...









