吾輩は猫である ―高校サッカー 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 冬になると、テレビの前で飼い主の声が少し大きくなる。芝生の上を、若い人間たちが走っている。白い息、赤い頬、そして、やけにまっすぐな目。――高校サッカーである。 彼らはよく走る。意味があるのか、得なのか、そんなことを考える暇もなく、ただ、仲間の声に反応し、ボールを追う。 吾輩は思う。猫なら、あそこまで走らない。だが、走らねばならぬ時があることは知っている。逃げるためではなく、守るために走るときだ。 点が入る。歓声が上がる。ベンチが跳ねる。そして、点が入らなくても、泣く者がいる ...
吾輩は猫である ―インテリジェンス 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 人間はよく言う。「賢い」「頭がいい」「インテリジェンスがある」と。その基準は、計算が早いことか、知識が多いことか、言葉が巧みなことか。 吾輩は少し疑問に思う。 賢さとは、すぐに動くことではなく、動かない選択ができることではないか。危険を察し、距離を測り、今は待つべきだと判断する力。それもまた、立派な知性である。 吾輩は扉の前で鳴かない。一度、視線を送り、相手の反応を見る。それで開かなければ、別の場所で静かに待つ。無駄な力を使わぬこと。それが猫のインテリジェンスだ。 飼い主は ...
吾輩は猫である ―かぎ尻尾 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 吾輩の尻尾は、まっすぐではない。途中で、くい、と折れ、小さな鍵のような形をしている。人はそれを「かぎ尻尾」と呼ぶ。 子猫の頃、それを見て心配する人もいた。「大丈夫? 曲がってるよ。」だが、吾輩にとっては最初からこの形だった。不自由も、違和感もない。 むしろ、この尻尾は役に立つ。狭い場所で体の向きを伝え、気分を少しだけ強く表現し、ときには、人の指を引っかけて引き留める。 昔から言われているらしい。かぎ尻尾の猫は、幸運を引っかけてくる、と。吾輩は信じても信じなくてもよい。だが確 ...
吾輩は猫である ―丙午 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 人間たちは、暦を気にする。年回り、干支、星の並び。その中でも「丙午」という言葉は、どこか声を潜めて語られる。 「昔はね、丙午の年に生まれた女の子は――」そんな話を、吾輩はこたつの中で聞いた。炎が強すぎるとか、家を燃やすとか、随分と大げさな話である。 吾輩は思う。火は、使えば温かく、恐れればただ暗い。問題は火ではなく、それを見る目のほうではないか。 丙午の年にも、朝は来て、猫は生まれ、人は笑い、夕方には夕焼けがある。特別に悪い日は、どこにも見当たらぬ。 それでも人は、見えない ...
吾輩は猫である ―猫晴れ着 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 正月の朝、飼い主がいつもより丁寧に吾輩を呼んだ。その手には、見慣れぬ布切れがある。赤と金、小さな模様。――どうやら晴れ着らしい。 吾輩は一瞬、身構えた。服というものは、基本的に自由を奪う。だが、今回は違った。軽く、柔らかく、首元にそっと結ばれるだけ。 鏡の前に立たされる。そこに映ったのは、少し誇らしげな吾輩だった。いつもの毛並みの上に、“特別な日”が重なっている。 飼い主は満足そうに言った。「似合うね。お正月だもん。」吾輩は否定もしなかった。晴れ着とは、見せるためのものでは ...
吾輩は猫である ―猫ドラマーと総理ドラマー共演 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 ある夜、テレビの音がいつもと違った。演説でも、討論でもない。規則正しいリズムが、低く、しかし確かに響いている。――どうやら、総理がドラムを叩くらしい。 吾輩は思った。政治とは言葉の芸だと思っていたが、どうやら“間”の芸でもあるようだ。 そのとき、吾輩の前にあるのは段ボール。叩けば、よい音がする。軽く、的確に、肉球で打つ。これは吾輩の持ち場だ。 ステージは違えど、同じドラム。総理は大きな太鼓を、吾輩は小さな箱を。だが、どちらもリズムを外せば、全体が崩れる。 総理のドラムは、力 ...
吾輩は猫である ―投薬補助おやつに懐柔される猫 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 飼い主が、見慣れぬ袋を取り出した。それは、普段のおやつよりも、少しだけ“本気”の匂いがする。 ――怪しい。 「これ、好きでしょ?」そう言って差し出されたそれは、柔らかく、温度もよく、触れた瞬間にこちらの警戒心を溶かしにかかってきた。 吾輩は一歩、距離を取った。学習している。最近の食べ物には、裏がある。 だが、嗅覚が告げる。これは、かなり良い。 飼い主は静かだ。急がない。追いかけない。ただ、そこに置く。――ずるい。 吾輩は思案した。これは罠か。それとも、条件付きの和平交渉か。 ...
吾輩は猫である ―錠剤苦手な猫 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 白くて、小さくて、においのしない敵が現れた。――錠剤である。 飼い主は優しい声で言う。「すぐ終わるよ。」だが、その言葉を信じてよい結果になった試しは少ない。 まずは、おやつに混ぜる作戦。吾輩は一口で見抜いた。味ではない。“違和感”である。猫は、違和感の専門家だ。 次は、喉の奥に入れる正攻法。口を開けられ、上を向かされる。吾輩は全力で抵抗した。四肢、しっぽ、視線、すべてを使って拒否する。 「お願い……」飼い主の声が、だんだん必死になってくる。吾輩は思った。――これは勝ち負けで ...
吾輩は猫である ―猫のレントゲン―動かないで― 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 今日は病院である。白くて、静かで、なにやら機械の音がする場所だ。診察のあと、獣医殿が言った。「レントゲンを撮りましょう。 ――動かないでくださいね。」 ……それが一番難しい。 台の上は冷たく、姿勢は不自然。吾輩は思う。なぜ猫に“動くな”を求めるのか。それは、風吹けば揺れる生き物に風を止めろと言うようなものだ。 だが、飼い主の声が聞こえた。「大丈夫だよ。すぐ終わるから。」その一言で、胸の奥がすっと落ち着いた。 機械が近づき、「はい、いきます。動かないでー。」吾輩は全身の力を抜 ...
吾輩は猫である ―世界の猫 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 窓辺で丸くなりながら、吾輩は時々、世界のことを考える。この空の下には、吾輩と同じように伸びをし、欠伸をし、眠りにつく猫が無数にいる。 砂漠の国では、日陰を選ぶ猫がいる。雪の国では、毛を膨らませて冬を越す猫がいる。港町では、魚の匂いと共に生きる猫がいる。 言葉は違えど、猫はどこでも猫である。急がず、無理をせず、居心地のよい場所を見つける天才だ。 人間たちは国境を引き、争い、話し合い、また悩む。だが猫は、境界線の上で丸くなり、どちらにも属さず、ただ今日を生きる。 世界には、守ら ...









