吾輩は猫である ― 飛行機で帰省 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 年の瀬、飼い主が大きなスーツケースを引きずりながら言った。「さあ、実家に帰るよ」そう、吾輩も一緒に“帰省”するのである。 まずは空港へ向かうバス。だが、乗り継ぎが悪い。一本逃せば次は三十分後、吾輩のキャリーの中は早くも蒸し風呂状態だ。飼い主は焦り、スマホで時刻表をにらみつけている。吾輩はただ無言で見守る――猫は慌てぬ。慌てても、バスは早く来ぬのだ。 ようやく空港に着き、飛行機のエンジン音が唸る。離陸の瞬間、吾輩の体はふわりと浮き、窓の外に小さく街が遠ざかっていく。あの下に、 ...
吾輩は猫である ― 万博ミャクミャク 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 このところ、飼い主がテレビの前でしきりに言っている。「チケット、当たった!」どうやら“大阪・関西万博”という催しに行くらしい。そこには“ミャクミャク”なる不思議な生き物がいるそうだ。 吾輩も写真で見た。赤と青がぐにゃりと混じり、目がいくつもついたその姿。初めは少し怖かったが、よく見ると、どこか懐かしい。――まるで人と猫と自然の命が一つに溶け合ったような、不思議な形をしている。 飼い主は言う。「人間の知恵と未来が集まる場所なんだ」なるほど、人は集まり、語り、築こうとする。だが ...
吾輩は猫である ― 蒲刈のダイバ 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 瀬戸内の島・蒲刈では、今も夜ごと太鼓と笛の音が響く。人々が舞い、鬼が現れる――それが「蒲刈神楽」。 その中に「提婆(ダイバ)」と呼ばれる者がいる。角を持ち、恐ろしい顔をしているが、村人は彼を恐れぬ。むしろ、悪しきものを祓う守り神として敬っている。 吾輩は神楽の舞台裏からそれを見ていた。火の粉が舞い、面の奥の目が光る。だがその眼差しには、怒りよりも祈りが宿っていた。「恐れられること」と「敬われること」は、まるで同じ面の裏表のようだ。 人も猫も、強さを装うことでしか優しさを守れ ...
吾輩は猫である ― オイスターカフェ 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 このあいだ、飼い主が連れて行ってくれたのは、港沿いにできた「オイスターカフェ」なる店。潮の香りに誘われて、吾輩もつい足取りが軽くなった。 店のテラス席からは、青い海と白いヨットが見える。人間たちは「生ガキ」「焼きガキ」「オイスタープレート」などと楽しげに注文している。吾輩の前にあるのは――残念ながら水と猫用のクッキーである。 しかし、あの鉄板の上でカキがじゅうっと音を立てる瞬間、この世のすべての猫が背筋を伸ばすだろう。香ばしい匂いにひげが震え、舌の奥がしびれる。 飼い主は笑 ...
吾輩は猫である ― 吾輩は江田島平八郎である 編―
吾輩は猫である。名は――江田島平八郎である。 この家の者は皆、吾輩をただの猫と思っているようだが、それは大いなる誤解である。吾輩はこの家の秩序を守る総司令官、すなわち“猫艦隊”の提督なのである。 朝は点呼から始まる。飼い主が寝坊しても、吾輩は遠慮なく顔の上に乗り、「起床ラッパ」を発令する。食事の時間を過ぎた場合は、規律違反として足にすり寄り強制執行だ。 日中の巡回では、廊下を往復し、異常がないかを確認。郵便配達員が来れば即座に警戒態勢、冷蔵庫が開けば戦略的突入を試みる。 夕刻になると、飼い主がテレビをつけ ...
吾輩は猫である ― しまなみの猫雑貨店 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 瀬戸内の海をわたる風が心地よい。橋を渡った先の小さな島に、「猫雑貨店」と書かれた看板が立っている。店先には、陶器の猫、木彫りの猫、布でできたブローチの猫――どれも少しずつ違って、どれもやさしい顔をしていた。 吾輩はその店の軒先で暮らしている。観光客が来るたびに、「ほんとに猫がいる!」と声を上げる。カメラを向けられても、吾輩は気にしない。この島では、時間さえ潮のようにゆるやかに流れる。 店主の女性は、「どんな猫も、どこかに似ている」と言う。それは、心のどこかに“帰りたい場所” ...
吾輩は猫である ― 猫の留守番 編―
秋晴れの昼下がり、主人が「出張だ」と言い残して玄関を出ていった。玄関の扉が閉まる音が、まるで宇宙の果てで鳴ったように遠く響いた。吾輩、留守番を任された。いや、押しつけられたのかもしれぬ。 午前中は余裕だった。日向の絨毯の上で、背中を丸めて惰眠を貪る。カーテン越しの風が尻尾をくすぐり、ああ、これぞ平和の極み。 しかし午後になると、部屋の静けさが急に重くなる。冷蔵庫のモーター音が妙に耳につき、郵便受けの金属音に心臓が跳ねた。人間という生き物は、案外この孤独に耐えられぬからこそ群れるのだろうか。吾輩は猫だが、文 ...
吾輩は猫である ― 白髪 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 鏡の前で飼い主がため息をついた。「最近、白髪が増えたなあ」と。頭を傾けては毛をかきあげ、まるで季節の変わり目でも迎えたかのように、その一本一本を気にしている。 吾輩は足元で毛づくろいをしながら思う。白くなるのは、悪いことではない。吾輩の毛並みだって、若い頃より少し薄く、ところどころ銀のように光ってきた。けれど、それは月の光を宿した勲章のようなものだ。 若さは風のように駆け抜け、年輪は静かに積もっていく。人も猫も、白い毛が増えるたび、優しくなる気がする。昔より少し遅く動き、昔 ...
吾輩は猫である ― 関節炎 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 最近どうも、前足の動きがぎこちない。かつては棚の上にもひと跳びで登れたが、いまは助走をつけても届かない。階段を上るたびに、骨の奥でこすれるような痛みが走る。どうやら、これが“関節炎”というやつらしい。 飼い主は心配そうに病院へ連れて行ってくれた。白衣の人が吾輩の足を優しく撫で、「年齢ですね」と言った。――年齢。その言葉が少しだけ胸に刺さった。 だが帰り道、飼い主は笑って言った。「いいじゃない、年を取るってことは、 たくさん生きたって証拠だよ」 その夜、吾輩はゆっくりと毛づく ...
吾輩は猫である ― 女性若手デザイナー 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 この冬、ロシアの雪深い町に一人の少女がいた。十八歳のその瞳は澄みきっていて、彼女の手にはいつも、擦り切れたスケッチブックがあった。紙の上には、夢のような服や街の風景が描かれている。 少女は言った。「いつか、人を幸せにするデザインをつくりたい」その声は震えていたが、芯は強かった。家族は心配し、友人は笑った。それでも彼女は、春の雪解けとともに首都の大学へと旅立った。 吾輩はその夜、彼女の足元を通り過ぎた。暖かな灯の中で、彼女は裁縫道具を詰めながらつぶやいた。「怖いけれど、行く」 ...









