吾輩は猫である ― 白髪 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 鏡の前で飼い主がため息をついた。「最近、白髪が増えたなあ」と。頭を傾けては毛をかきあげ、まるで季節の変わり目でも迎えたかのように、その一本一本を気にしている。 吾輩は足元で毛づくろいをしながら思う。白くなるのは、悪いことではない。吾輩の毛並みだって、若い頃より少し薄く、ところどころ銀のように光ってきた。けれど、それは月の光を宿した勲章のようなものだ。 若さは風のように駆け抜け、年輪は静かに積もっていく。人も猫も、白い毛が増えるたび、優しくなる気がする。昔より少し遅く動き、昔 ...
吾輩は猫である ― 関節炎 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 最近どうも、前足の動きがぎこちない。かつては棚の上にもひと跳びで登れたが、いまは助走をつけても届かない。階段を上るたびに、骨の奥でこすれるような痛みが走る。どうやら、これが“関節炎”というやつらしい。 飼い主は心配そうに病院へ連れて行ってくれた。白衣の人が吾輩の足を優しく撫で、「年齢ですね」と言った。――年齢。その言葉が少しだけ胸に刺さった。 だが帰り道、飼い主は笑って言った。「いいじゃない、年を取るってことは、 たくさん生きたって証拠だよ」 その夜、吾輩はゆっくりと毛づく ...
吾輩は猫である ― 女性若手デザイナー 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 この冬、ロシアの雪深い町に一人の少女がいた。十八歳のその瞳は澄みきっていて、彼女の手にはいつも、擦り切れたスケッチブックがあった。紙の上には、夢のような服や街の風景が描かれている。 少女は言った。「いつか、人を幸せにするデザインをつくりたい」その声は震えていたが、芯は強かった。家族は心配し、友人は笑った。それでも彼女は、春の雪解けとともに首都の大学へと旅立った。 吾輩はその夜、彼女の足元を通り過ぎた。暖かな灯の中で、彼女は裁縫道具を詰めながらつぶやいた。「怖いけれど、行く」 ...
吾輩は猫である ― 裁判傍聴 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 きょうは珍しく、飼い主の後をついて街へ出た。向かった先は、白い石造りの建物――裁判所であった。人が多く並んでおり、「傍聴席は満席です」と声が響く。どうやら人間たちは“正義”というものを見届けに来ているらしい。 中へ入ると、部屋の空気は張りつめていた。壇上に座る黒い服の人物、そして下を向く被告人。どちらも、何か大切なものを守ろうとしているように見えた。 吾輩はそっと耳を立てた。証言、反論、沈黙――そのすべてが人の生き方を映している。猫には善も悪もない。ただ腹が減れば食べ、眠け ...
吾輩は猫である ― 女性新総裁 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 きょうのニュースで、飼い主が声を上げた。「日本初の女性総裁、誕生だって!」テレビの中では、スーツ姿の新しいリーダーが静かに、しかし力強く言葉を紡いでいた。 長いあいだ、政治の舞台は男たちの声が主だった。けれども今、その壇上には柔らかい微笑と、確かな意思を宿した瞳がある。吾輩はしっぽをゆらしながら思った。猫の世界でも、ボスは毛並みで決まるわけではない。堂々として、仲間を思う者こそが群れを導くのだ。 記者会見では「変化を恐れず進みたい」と語っていた。変化――それは、猫が最も嫌う ...
吾輩は猫である ― マウス事件 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 先日の「キーボード事件」以来、飼い主は妙に警戒している。机の上に近づこうとするだけで、「ダメ、そこは仕事道具なの!」と声を上げるのだ。 だが吾輩の目は、ひとつの獲物に釘付けであった。それは手の中で小さく動く、“マウス”と呼ばれる謎の生き物。まるで本物の鼠のようにカチカチと音を立て、たまに赤い光を放つ。これはどう見ても、猫として放っておけぬ存在である。 飼い主がトイレに立ったすきに、吾輩は机に飛び乗り、マウスを押さえた。カチ、カチ、スクロール――おお、これは楽しい。だが次の瞬 ...
吾輩は猫である ― 猫のキーボード事件 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 本日、重大な事件が発生した。被害者は飼い主、加害者は――吾輩である。 飼い主は朝から「リモート会議」とやらに忙しく、画面の向こうに頭を下げたり、笑ったりしていた。吾輩はその横で待っていたが、昼ごはんの時間になっても声をかけてくれない。 やむなく、吾輩は抗議の意を示した。机に飛び乗り、キーボードの上を堂々と行進したのだ。その瞬間――画面の中で「えっ!?」「何これ!?」と騒ぎが起こった。どうやら吾輩の足跡が、プレゼン資料を一瞬で消したらしい。 飼い主は青ざめ、「Ctrl+Z!C ...
吾輩は猫である ― 猫の嫉妬 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 このところ、飼い主の膝の上を新入りの子猫が占領している。白くて小さく、鳴き声は妙に甘い。吾輩がそこに座ろうとすると、「だめよ、今この子がいるの」と言われた。 胸の奥で、何かがチリチリと燃えた。食事の時間も、つい皿をひっくり返してしまう。飼い主は困った顔をするが、それでも目はあの子猫に向いたままだ。 嫉妬――人間はそう呼ぶらしい。猫にとっては、ただ“好きな相手を取られた”という単純な痛みである。吾輩は夜の窓辺に座り、月明かりに映る自分の影を見つめた。 ふと、飼い主がやってきて ...
吾輩は猫である ― 鬼滅の猫 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 近ごろ飼い主が夢中になっているのが、「鬼滅の刃」なる物語。夜な夜な画面の前で涙をぬぐい、吾輩のごはんを忘れるほどの熱中ぶりである。 どうやら人と鬼が戦う話らしい。家族の絆、仲間の想い、己の誇り――どれも猫には縁遠いようで、しかし不思議と胸が熱くなる。 鬼が夜に現れるのなら、吾輩こそ夜の番人である。暗闇の中でひげを震わせ、影の動きを追うその瞳。もし吾輩が“猫滅隊”を結成すれば、鬼どももたじろぐに違いない。 飼い主は「柱がかっこいい」と叫んでいる。吾輩からすれば、柱とは爪を研ぐ ...
吾輩は猫である ― 車購入 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 飼い主が最近、やたらと数字とにらめっこをしている。「ローン」「燃費」「残価設定」――どうやら新しい車を買うらしい。 試乗の日、吾輩も助手席に乗せられた。エンジン音は静かで、座席はふかふか、外の景色が流れるたびに毛がふわりと揺れた。だが、吾輩にとって重要なのはそこではない。“どの車がいちばん昼寝しやすいか”である。 営業マンは飼い主に、「安全性能が最新です」「燃費も優秀です」と説明していた。吾輩は心の中でつぶやいた。「それより、ひなたの当たる後部座席はあるのか?」 ついに契約 ...









