吾輩は猫である ― クマに遭遇した猫 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 秋の山は、金色に染まっていた。木の実を拾いに、少し奥まで入りすぎたのだ。風がひゅうと抜け、葉がカサリと揺れたその瞬間――大きな影が木立の向こうに立っていた。 クマである。 吾輩の背の何倍もある体、黒光りする毛並み、息づかいが地面を震わせる。時間が止まったようだった。 逃げるか、動かぬか。猫の本能が叫んでいた。しかしクマの目は、意外にも穏やかだった。その瞳には、飢えでも怒りでもなく、ただ静かな生の光が宿っていた。 しばし、二つの影が山の斜面で向かい合った。吾輩は小さく息を吐き ...
吾輩は猫である ― ホテル立山 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 この場所は雲の上。標高二千メートルを越える山の上に建つ「ホテル立山」。夜は星が降り、朝は雲が海になる。吾輩はそのロビーの隅に棲みついた一匹の山猫である。 観光客たちは口々に言う。「来年で閉館なんて、もったいないね」確かに、この景色は唯一無二だ。夏の青空も、秋の紅葉も、冬の静けさも――すべてがここで交わってきた。 このホテルは長いあいだ、登山者や旅人の“避難所”であり“憩い”であった。吹雪の夜に迷った者が灯りを見て涙し、頂を極めた者がコーヒーをすすりながら笑った。そして吾輩は ...
吾輩は猫である ― 恋する警護 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 このところ、飼い主に新しい仕事ができたらしい。「警護の仕事」と言っていた。誰かを守るために、夜も外を歩く。その姿は、いつもより少し頼もしく見えた。 帰りが遅くなる夜、吾輩は玄関の前で耳を澄ませる。鍵の音が聞こえるまで、ただ静かに、息をひそめて待つ。守るというのは、たぶん待つことでもあるのだろう。 飼い主のスマホから聞こえる声――それは、守る相手の女性のものだった。「いつもありがとう」その言葉に、飼い主の顔が少し赤くなった。吾輩は気づかぬふりをしたが、胸の奥が少しだけチクンと ...
吾輩は猫である ― 百日咳と猫の咳 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 このところ、飼い主の咳が止まらぬ。夜になると胸を押さえては苦しそうにしている。医者の話では「百日咳」らしい。百日――人間にとっては長いが、吾輩にとっては、春がひと巡りするほどの時間だ。 そんなある晩、吾輩も喉がこそばゆくなり、思わず「コッ」と鳴いた。飼い主が目を丸くして言う。「まさか、君まで?」 病院に行くわけにもいかぬ吾輩だが、飼い主は部屋の温度を整え、加湿器をつけ、毛布をそっと掛けてくれた。その手つきは、まるで自分が看病されているかのように優しかった。 翌朝、飼い主の咳 ...
吾輩は猫である ― そうじゃのう 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 朝のニュースで、飼い主が小さくつぶやいた。「村山富市さん、101歳で亡くなられたんだって。」テレビの画面には、柔らかな笑みを浮かべる老人の姿が映っていた。 「そうじゃのう」ゆっくりと、しかし確かな重みをもって語るその声を、吾輩もどこかで聞いたことがある。災害に寄り添い、戦争を語り継ぎ、人の痛みに耳を傾けた人だった。 政治の言葉は難しい。だが、村山という人の言葉には、理屈よりも“人の温度”があった。時に批判されても、自らの信じる道を曲げなかったその背中は、どこか、陽だまりで眠 ...
吾輩は猫である ― 飛行機で帰省 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 年の瀬、飼い主が大きなスーツケースを引きずりながら言った。「さあ、実家に帰るよ」そう、吾輩も一緒に“帰省”するのである。 まずは空港へ向かうバス。だが、乗り継ぎが悪い。一本逃せば次は三十分後、吾輩のキャリーの中は早くも蒸し風呂状態だ。飼い主は焦り、スマホで時刻表をにらみつけている。吾輩はただ無言で見守る――猫は慌てぬ。慌てても、バスは早く来ぬのだ。 ようやく空港に着き、飛行機のエンジン音が唸る。離陸の瞬間、吾輩の体はふわりと浮き、窓の外に小さく街が遠ざかっていく。あの下に、 ...
吾輩は猫である ― 万博ミャクミャク 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 このところ、飼い主がテレビの前でしきりに言っている。「チケット、当たった!」どうやら“大阪・関西万博”という催しに行くらしい。そこには“ミャクミャク”なる不思議な生き物がいるそうだ。 吾輩も写真で見た。赤と青がぐにゃりと混じり、目がいくつもついたその姿。初めは少し怖かったが、よく見ると、どこか懐かしい。――まるで人と猫と自然の命が一つに溶け合ったような、不思議な形をしている。 飼い主は言う。「人間の知恵と未来が集まる場所なんだ」なるほど、人は集まり、語り、築こうとする。だが ...
吾輩は猫である ― 蒲刈のダイバ 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 瀬戸内の島・蒲刈では、今も夜ごと太鼓と笛の音が響く。人々が舞い、鬼が現れる――それが「蒲刈神楽」。 その中に「提婆(ダイバ)」と呼ばれる者がいる。角を持ち、恐ろしい顔をしているが、村人は彼を恐れぬ。むしろ、悪しきものを祓う守り神として敬っている。 吾輩は神楽の舞台裏からそれを見ていた。火の粉が舞い、面の奥の目が光る。だがその眼差しには、怒りよりも祈りが宿っていた。「恐れられること」と「敬われること」は、まるで同じ面の裏表のようだ。 人も猫も、強さを装うことでしか優しさを守れ ...
吾輩は猫である ― オイスターカフェ 編―
吾輩は猫である。名はまだない。 このあいだ、飼い主が連れて行ってくれたのは、港沿いにできた「オイスターカフェ」なる店。潮の香りに誘われて、吾輩もつい足取りが軽くなった。 店のテラス席からは、青い海と白いヨットが見える。人間たちは「生ガキ」「焼きガキ」「オイスタープレート」などと楽しげに注文している。吾輩の前にあるのは――残念ながら水と猫用のクッキーである。 しかし、あの鉄板の上でカキがじゅうっと音を立てる瞬間、この世のすべての猫が背筋を伸ばすだろう。香ばしい匂いにひげが震え、舌の奥がしびれる。 飼い主は笑 ...
吾輩は猫である ― 吾輩は江田島平八郎である 編―
吾輩は猫である。名は――江田島平八郎である。 この家の者は皆、吾輩をただの猫と思っているようだが、それは大いなる誤解である。吾輩はこの家の秩序を守る総司令官、すなわち“猫艦隊”の提督なのである。 朝は点呼から始まる。飼い主が寝坊しても、吾輩は遠慮なく顔の上に乗り、「起床ラッパ」を発令する。食事の時間を過ぎた場合は、規律違反として足にすり寄り強制執行だ。 日中の巡回では、廊下を往復し、異常がないかを確認。郵便配達員が来れば即座に警戒態勢、冷蔵庫が開けば戦略的突入を試みる。 夕刻になると、飼い主がテレビをつけ ...









